再三くりかえすが、祁答院行重は延慶(えんぎょう)三年(一三一〇)大井小四郎の子王一に、伊勢国鹿取上郷内是利名・重□名と祁答院柏原内平河を譲り、元徳三年(一三三一)に養子千代寿丸を大井氏の惣領に立て、大森・永富両郷を譲与した。延慶の行重譲状案にみえる柏原内平河は、現在の宮之城町上平川・柿木・下平川の地である。この地は宮之城町西郊にあり、川内(せんだい)川にそそぐ海老川流域の狭い谷底平野で、海老川水系に細長く展開する水田地帯である(第八四図)。延慶三年行重譲状案の平河に続く欠字の部分を、大井氏が鶴岡若宮八幡宮を勧請した一ッ木をあてることができるとすれば、王一は行重から、本来祁答院氏の所領を構成する平河と一ッ木を分割譲与されたと考えられる。一ッ木は海老川の谷から丘陵一つをへだてて、泊野川流域の谷にのびる狭い水田地帯である(第八五図)。
平川と一ッ木を譲与された大井王一は、祁答院氏とどのような関係にあったであろうか。「大井文書」は、それについて解答を与えてくれないが、前に触れた祁答院氏の縁族斑目氏の例が示唆を与えてくれるかもしれない。鹿児島大学付属図書館所蔵「斑目文書」・「祁答院渋谷氏・斑目氏系図」・「橘(たちばな)姓斑目氏系図」(もと鹿児島県出水(いずみ)市武本上堅場斑目重行氏所蔵)によると、斑目氏は出羽国斑目(郷)地頭橘元長を祖とし、惟(これ)広とその子広長は宝治合戦に討死した。広長の弟惟基も連坐して所領を没収された。祁答院重松の弟泰基(法名聖蓮)が惟基のあとを継ぎ、斑目姓を名のった。正応元年(一二八八)八月十一日、重松(法名行蓮)は泰基に祁答院柏原のうち河口の野(下川口)とあらい新田を譲った。建武二年(一三三五)八月一日に、祁答院重実は斑目三郎(泰基の弟員基か)に祁答院内借家原(かりやばる)を譲り渡した(川口・借家原の位置は第七五図参照)。この二通の譲状によって、柏原名下川口村と時吉名借屋原村が、斑目氏の相伝所領になったのである(五味克夫前掲論文)。そして正中元年(一三二四)十月二十一日「橘政泰着到状」には「薩摩国祁答院一分(いちぶ)地頭斑目六郎政泰ならびに子息孫七政行」とみえ、斑目氏が祁答院一分地頭であったことがわかる。要するに、斑目氏は祁答院地頭職を分割譲与(一分地頭)され、惣地頭祁答院氏の統制下にくみこまれる縁族の地位にあった。
関係文書はつぎの三点である。
行蓮譲状案
斑目兵衛二郎入道聖蓮ハ為舎弟上、異国警固の代官として忠をいたすあひた、薩摩国祁答院柏原の内、河口の野并其内のあらひ新田弥源次入道作等をハ譲渡也、向後更不可有他人之□(妨)、若此志をわすれて不慮之次第出来之時ハ、[ ](此状)ニよるへからす、仍証文之状如件、
正応元年八月十一日 行蓮(祁答院重松)在判
平重実譲状
後のためにしひつ(自筆)をくわうる也
さつまのくに(薩摩国)けたうゐん(祁答院)のうちかりやハら(借屋原)のむら(村)ハ、重実ちうたいさうてん(重代相伝)のしよりやう(所領)也、しかるにかのむら(彼村)をまたらめ(斑目)の三郎との(殿)に心さし(志)あるによて、ゑいたい(永代)ゆつりわたす(譲渡)ところなり、子々孫々さうそく(相続)せらるへく候、さかい(境)ハいにしへ(昔)のことくにちか(違)ふましく候、重実か子孫のなかにいらん(違乱)をいたす事候ハヽ、なか(永)くふけう(不孝)たるへく候、よてきやうこうきけい(向後亀鏡)のためにけいやく(契約)状如件、
建武二年八月一日 平重実(祁答院)(花押)
橘政泰着到状
薩摩国祁答院一分地頭斑目六郎政泰并子息孫七政行当参之間、依禁裏御事、則時馳参、付着到候畢、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
元亨四年(正中元年)十月廿一日 橘(斑目)政泰上(裏花押)
進上 御奉行所
承了(花押)(北条英時)
斑目氏の例を念頭におき、前掲の祁答院行重譲状案二通により祁答院氏と大井氏との関係を略図に示すと次のようになるだろう。
ここでの問題は、大井小四郎―王一と大井氏の惣領に立てられた大井千代寿丸の関係である。王一と千代寿丸は同一人物ではない。なぜなら、延慶三年(一三一〇)に童名を王一といった人が、元徳三年(一三三一)になっても童名千代寿丸を称するはずがないからである、それでは千代寿丸とはだれか。現存の史料ではこの疑問を解決できない。ただ後述する南北朝時代以降の薩摩大井氏が、大井小四郎―王一の系統であったろうという想定を立てるにとどまる。そして小四郎系の大井氏は斑目氏と同様に、祁答院惣地頭職の一部である柏原内平河・一ッ木を行重から分割譲与され、祁答院氏の縁族として外縁に位置する祁答院一分地頭であったろう。
つぎに薩摩大井氏のその後の動向を簡単に追ってみたい。南北朝の動乱は、南九州の地をうち続く争乱にまきこんだ。薩摩では守護島津貞久が、建武三年(一三三六)以降足利尊氏に属し、国内の南朝方の敵と攻防をくりかえした。暦応三年(一三四〇)五月、貞久は薩摩と大隅の兵を召集し、八月八日南朝方の将市来(いちき)時家を日置郡市来城に攻め、時家を降伏させた。大井小四郎はこのとき貞久の軍勢に召集され、市来城攻撃に参加した(『薩藩旧記雑録』前編巻二二)。「大井文書」中唯一の原文書である「沙弥道鑑(島津貞久)軍勢催促状」(資二五号第八六図)は、貞久が大井小四郎一族を召集したことを実証する史料である。
翌暦応四年(一三四一)五月、高城(たき)渋谷氏の一族渋谷権守重棟の子弥四郎重春が、車内二郎・西岡弥次郎左衛門尉らとともに、渋谷千代童丸の祁答院太郎丸名長野城を襲撃して放火した。同年七月に千代童丸の代理信政は九州探題もしくは幕府に重春らの行動を訴えた(資二六)。訴状に添えた「放火狼藉人等交名(きょうみょう)注文」に大井小四郎・同四郎・同六郎の名がのせられている。この事件の詳細はよくわからない。しかし同年八月にも重棟が子息重春に、渋谷千松丸の東郷内鳥丸村(現薩摩郡東郷町)を夜襲させるという事件が起きている(『島津家文書』所収暦応四年八月二十二日「将軍家御教書」)から、動乱に触発された渋谷氏一族の内紛であったろう。大井小四郎がこの間にあって、積極的に活動している様子がおぼろげにうかがえる。
その後、南北朝から室町時代にかけて薩摩大井氏の動きは伝わらない。はるか後代の永禄年間(一五五八~六九)、入来院渋谷重豊が大山外記に水田二町を与えた「渋谷重豊知行充行(あてがい)状案」(『祁答院記』所収)の奏者(執行者)に、大井美作守実勝の名がみえる。実勝は永禄年間に、柏原から紫尾神興寺に達する参道に建てられた町石卒塔婆(ちょういしそとば)(一町ごとに建てた道標)寄進者の一人であった(『祁答院記』)。この町石はいまなお数本現存している。
『祁答院記』所収「蒲生士湯田平内家」所蔵という「渋谷重豊知行充行状案」は、つぎのような文書である。
行鉄(祁答院良重)御死去之後、大山形(刑)部左衛門尉一命を果し候に依て、水田二町被宛行候也、
(入来院)重豊判 大井美作守実勝判
永禄(ママ) 高城武蔵守□(ママ)重判
久冨木兵庫頭重全判
大山外記殿
この文書は形式上若干の疑問があるが、信頼できるとすれば、大井実勝は入来院重豊の命令を執行した祁答院氏の有力家臣と考えられる。
同じ永禄ごろ、「渋谷良重家門并家臣目録」(『祁答院記』所収「湯田平内家旧記」)には「紀氏大井越中守」が記録されている。祁答院氏は、永禄九年(一五六六)良重の死によって正統が絶え、祁答院地方は島津貴久の子歳久が領した。
さて私たちは最後にふたたび第一章第一節で述べた「大井文書」発見のいきさつのところへもどろう。姶良(あいら)郡加治木町大井実澄氏所蔵の「大井系図」諸本によると、七右衛門尉実が川辺大井右京家を継いだという。その子孫が「大井文書」を現蔵する大井光三氏である。七右衛門尉実の父を石見守実高(あるいは実昌)といい、姶良郡帖佐郷の地頭職をつとめ慶安三年(一六五〇)に死去したという。帖佐郷地頭職の実体は明らかでないが、ここに近世大名島津氏の家臣になった大井氏の一流を見出せるように思える。六郷保大森・永富両郷を本拠とした秋春系大井氏はこうして薩摩の地に子孫を残した。鎌倉時代初期における有力御家人の庶流が、さまざまな縁故をたより遠隔地に移って有力地頭の家臣となり、やがて近世大名の家臣に結集されるという領主階級の成長の一過程を、薩摩大井氏の歴史が物語っているのである。