品川氏の始祖清実の事績は前述の大井氏一族の動向で触れた。清実はいつのころか本拠地をふくむ四ヵ所の地頭職を幕府から与えられた。伊勢国員弁郡内曽原御厨(現三重県員弁郡員弁町楚原)、武蔵国南品川郷桐井村(現品川区西五反田一帯、江戸時代の荏原郡桐ケ谷村)、陸奥国長世保内弘長郷(現岩手郡花巻市・稗貫郡一帯)、和泉国草部郷(現大阪府泉北郡福泉町草部)の四ヵ所である。貞応二年(一二二三)六月、幕府は清実の子清経が四ヵ所の地頭職の相続を承認した(資五号第八七図)。『尊卑分脈』紀氏系図には清実の子として太郎実光しかみえないが、現存の文書によって清経の存在をおぎなえるのである。清経が相続した所領は父清実の全所領ではなかったろう。貞応二年の「関東下知状」は、すでに鎌倉時代に品川郷が南北に分かれていたこと、南品川郷の郷域が江戸時代の南品川宿の境域よりはるかにひろく、江戸時代の戸越村・桐ケ谷村までふくんでいたことを実証する史料であるが、しかしそこには南品川郷に対応する北品川郷がみえない。北品川郷と、もう私たちが知ることができないその他の所領を相続した清経の兄弟らを、当然想定しなければならないのである。ところで清経が相続した四ヵ所の所領が、その後どのような変遷をたどったかわからない。わずかに陸奥弘長郷の一部船越村が、十三世紀後半に品川為清(法名清心)の所有に帰し、文永八年(一二七一)八月に為清が妻と考えられる尼某に譲り、尼の死後は子宗清が相続するように決めた、ということを知るだけである(資一五号)。
さて、『吾妻鏡』によると、承久の変のとき、品川氏は一族あげて上洛軍に加わり、宇治川の激戦で多くの犠牲者を出した。清実の孫四郎春員は六月十四日の宇治橋の合戦で負傷した。二十一年後の仁治三年(一二四二)四月五日に、春員は近江国野洲南郡三宅郷の地頭職に任命された(資二六号第八八図)。承久の変の勲功に対する恩賞としてであった。三宅郷の由来ははっきりしないが、承久の変後幕府が没収した京方の公家と武士の所領は、三千余ヵ所というから、三宅郷もその一つであったろう。
幕府は没収所領の地頭職を御家人に恩賞として与えた。承久の変後の地頭を新補(ぽ)地頭といって、文治元年(一一八五)以来の本補地頭と区別し、得分(所得)に前例がない場合には、公領荘園の田畠一一町ごとに一町の給田畠をもち、一反あたり五升の加徴米(付加米)、山野河海の得分の半分、検断得分(警察費)、在家役・夫役(労働力)などを徴収する権利を与えた。没収した所領には、公家の所領や西国の御家人・京方武家の所領が多かったので、それまで幕府の力がつよくおよばなかった西国に、ひろく地頭を置けるようになった。また東国の御家人が多く任命され、幕府の支配領域が拡大し、幕初以来東国政権的な性格を色こく持ちつづけた幕府は、この時機に全国政権に転換したといえる。遠隔地の地頭に任命された東国御家人は、一族や代官を赴任させて所領の経営にあたった。室町・戦国時代に、中国地方や九州で、国人や戦国大名、あるいはその家臣に成長した家の先祖をたずねると、鎌倉時代の東国御家人に行きつく例が多いのは、このような事情によるのである。
さて、三宅郷地頭職を与えられた品川春員は、系図によると品川氏の始祖清実の子太郎実光の第三子であり、系図を信頼すれば品川氏の庶流となる(二二一ページ)。また系図には春員の子に与三頼員がみえるが、頼員は系図以外の史料に現われない。
系図上の春員の位置には、やや疑問がある。品川氏にとってもっとも大切なはずの、元暦元年(一一八四)品川郷雑公事免除の源頼朝下文が、春員系品川氏を通じて田代氏に伝えられたこと、三宅郷以外のいくつかの所頭(資一五・一六号)関係の文書が田代氏に伝えられていることをどのように考えるか、十分な検討が必要である。
春員は入道して法名を成阿(じょうあ)と称した。成阿は、いつのころか三宅郷を少なくとも四つに分割し、三人の男女の子に分かち与えた。三宅郷十三町田を清尚に、六町田と大方田地を娘某(田代道綱妻)に、十五条十二里および十七条十九坪弥次郎垣内を、もう一人の娘某(小串民部大夫妻)に分割譲与したのである。その後分割されたそれぞれの所領がたどった変遷を示してくれる著名な史料が現存する。すこし繁雑になるが、いくつかの史料(田代文書)を掲げて所領の相伝関係を検討してみよう。
「三宅郷相伝次第」初出の相伝系図は、史料Ⅲの記述から類推して「十三町田」のものである。また成阿―為清―尚清―宗清とあるが、後述の粉河寺領丹生屋村地頭品川氏の順次および「近江国三宅郷相伝系図」に照らして、成阿―清尚―為清―宗清でなければならない。
史料Ⅲ 観応元年(一三五〇)十月「田代顕綱言上状案」(第八九図)
田代三郎源顕綱謹みて言上す
早く且(かつ)は相伝当知行の旨に任(まか)せ、且(かつ)は軍功の忠により、安堵の御下文(くだしぶみ)を賜わり、向後の亀鏡(きけい)に備えんと欲す所領近江国野洲南郡三宅郷十三町・六町田・大方分ならびに和泉国大鳥庄上条村地頭職等の事
副進
一通 三宅郷御下文(くだしぶみ) 曩祖外戚(のうそがいせき)品河四郎入道成阿これを賜わる 仁治三年(一二四二)四月五日
一通 当郷内十三町の事、品河刑部左衛門尉宗清、女子松石女法名理大顕綱母堂に譲るの状 元亨元年(一三二一)十月十日御外題(げだい)あり同月廿日
一通 同郷内六町田の事、田代豊前又太郎入道覚阿、妻女源氏法名妙円理大姉に譲るの状 正安二年(一三〇〇)十月十八日
一通 六波羅殿御下知、同田地の事、妙円時に源氏女これを賜わる、元亨四年(一三二四)八月十三日
一通 妙円、妹源氏法名理大に譲るの状 嘉暦二年(一三二七)三月五日
一通 同郷大方田地の事、田代豊前又次郎基綱法名了賢顕綱祖父、嫂(よめ)源氏女法名理大顕綱母堂に譲るの状 嘉暦四年(一三二九)六月十三日
一通 母堂源氏法名理大、顕綱童名普賢丸市若丸に改むに譲るの状 元徳二年(一三三〇)三月十日
一通 安堵の御牒(ちよう)、顕綱これを賜わる 建武元年(一三三四)九月廿六日
已上 三宅郷手継(てつぎ)相伝の次第
(中略)
右、近江国三宅郷の事、曩祖品河四郎入道、承久勲功の賞として、去(さんぬ)る仁治三年(一二四二)拝領せしむるの後、男女の子息に譲るの刻(きざみ)、十三町方においては、同刑部左衛門尉宗清相伝するの間、去る元亨元年(一三二一)、女子字松石今は理大に譲り、同年十月廿日、外題(げだい)安堵を申し与えおわんぬ、次に同郷六町方の事、成阿の女子紀氏譲得の間、嫡孫田代豊前又太郎入道覚阿伝領の後、正安二年(一三〇〇)十月十八日、妻女源氏法名妙円に譲与しおわんぬ。その子細は六波羅御下知に分明なり、謹みてこれを備進す、よって知行相違なきの間、去ぬる嘉暦二年(一三二七)三月五日、妙円妹理大に譲るところなり、次に同郷大方分の事、これ同じく成阿女子に譲るの後、子孫等これを相伝せしめ、了賢伝領の間、乾元元年(一三〇二)十二月廿三日、安堵の御下文を申し賜わり、領掌相違なきの間、去る嘉暦四年(一三二九)六月十三日、嫂(よめ)源氏女字名理大顕綱母堂に譲る、ここに氏女御下文以下三方の手継証文をあいそえ、元徳二年(一三三〇)三月五日、顕綱ときに普賢丸にこれを譲るの間、去る建武元年九月廿六日、安堵の御牒を申し賜わりおわんぬ、
(中略)
観応元年九月 日
(原文は漢文)
右にあげた史料I・Ⅱ・Ⅲを綜合し、「田代文書」中の関連文書を参考にして、三宅郷の伝領系統を再構成すると、つぎのようになる。
このように復元できた伝領系統は、いくつかの興味深い事実を示している。そのことについて詳しく述べる余裕はないが、もっとも重要なことは、もと品川春員の所領三宅郷が、品川氏と田代・小串・伊佐氏との婚姻および養子関係を通じて鎌倉末・南北朝時代初期に、田代顕綱の所領となったことである。
田代氏は、もと伊豆国狩野郡田代郷の御家人である。田代信綱(法名浄心)が承久勲功の賞として和泉国大鳥庄(現大阪府堺市)の地頭職を与えられ、信綱は子頼綱に大鳥庄を与え、義綱に田代郷を譲った。頼綱は大鳥庄上条を子通綱に、子某に同庄下条を与えた(福田栄次郎「和泉国大鳥荘と地頭田代氏について」『駿台史学』五)。春員は一人の娘に三宅郷六町田と大方田地を譲り、大鳥庄上条地頭田代通綱にとつがせたのである。通綱妻紀氏が相続した二つの所領は、図示のような径路で田代顕綱の母松石(法名理大)に伝わり、元徳二年(一三三〇)松石は子息顕綱に譲与した。
十三町田は春員から品川宗清に伝わったが、宗清は元亨元年(一三二一)、養子松石に譲り(資二三号第九〇図)、のち松石はこれを顕綱に伝えた。十五条十二里および十七条十九坪弥次郎垣内は、春員のもう一人の娘に譲られたのち、図示のように田代基綱に伝えられ、おそらく孫顕綱が相続したろう。結局、春員が清尚と娘二人に分割譲与した三宅郷は、ほぼ八〇年後の元徳二年(一三三〇)に、ふたたび集められて田代顕綱の所有となったのである。そのような結果をもたらしたなかだちは、春員の二人の娘と、松石という田代利綱の妻であった。
鎌倉時代の武家社会では、女性が所領をもち、結婚後も自分の財産としてそれを持ちつづけたことはよく知られている。一方、武家社会の一族結合の原理は、惣領が庶子(分家)に所領を分割相続させながらも、庶子は家を対外的に代表する惣領に統制され、所領の規模に応じて軍役を負担し、惣領の指揮下に戦闘に参加するという体制(惣領制)であった。この二つの側面のくいちがいが、春員の遺領が女性の所領相続を媒介にして田代氏のものになってしまった経過によく現われている。それは品川氏の惣領制的規制が、女性の所領に強くおよばなかったこと、伝統と実力をもつ有力御家人が婚姻関係などを通じて中小の御家人所領を吸収しつつ発展していることを示している。
南北朝の動乱は、御家人たちに遠隔地所領の維持を次第に困難にさせた。三宅郷は延文五年(一三六〇)に近江国守護代肥前房厳覚に押領され、所領の回復を求める田代利綱の訴状が数通みられるが、はっきりした結果はついていない。それ以後三宅郷に関する史料は「田代文書」からみえなくなる(福田栄次郎前掲論文)。