粉川寺領地頭

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奈良県の吉野に源をもち、和歌山県の最北部を東から西へ流れる紀の川流域には、いくつもの有名な高野山領荘園が分布し、史料の豊富さもあって、荘園研究の中心になっている。名手庄(現和歌山県那賀郡那賀町の一部)も高野山領荘園の一つであった。この荘園は、紀の川中流域の北岸に位置した。戦後の町村合併以前は、紀の川北岸に沿って走る大和街道に面して名手町があり、そこから東北の丘陵と山間部にかけて上名手村があった。現在は那賀町の大字(あざ)に名手西野・名手市場(旧名手町)、名手下・名手上(旧上名手村)という地名が残っている。名手庄の西の境は名手川であったろう。

 名手川の西側に、上丹生屋(にゅうや)・下丹生屋という現粉川(こかわ)町の大字がある。中世では丹生屋村の一村で、宝亀元年(七七〇)大伴孔子古(くじこ)の創建と伝えられる天台宗の巨刹粉川寺(こかわでら)の寺領であった。建長三年(一二五一)、丹生屋村の住人源朝治の証言によると、丹生屋村は朝治の外戚(がいせき)の先祖が、粉川寺に寄進して寺領になったと伝え(高野山文書宝簡集三十、建長三年二月十六日「源朝治同基治申状」)、別の史料では丹生屋村の東境は正暦年間(九九〇~九四)の太政官符(だじょうかんぷ)によって水無川(現在の名手川か)にきめられたという(宝簡集三十、建長三年十二月二日「官宣旨」)。そして鎌倉時代の中ごろ、十三世紀中葉の粉川寺領丹生屋村の地頭が、品川四郎春員から、近江国三宅郷十三町田を相続した刑部左衛門尉清尚と馬允為清であった。


第91図 名手庄・丹生屋村付近地図

 品川清尚が丹生屋村の地頭職を獲得したいきさつはわからない。しかし、もともと品川氏が紀伊国に所領をもっていたはずがないのであるから、幕府から与えられた所領であることはまちがいない。そして後で触れる「丹生屋村地頭品河清尚訴状」(資一〇号)によれば、清尚はすでに仁治二年(一二四一)に地頭であった。

 さて、名手庄と丹生屋村は、仁治二年(一二四一)に境界と用水をめぐる争いをおこし、粉川寺の衆徒と地頭清尚の代官正光が名手庄の沙汰人(庄官)・百姓の乱暴を幕府に訴え(資七号・資一〇号)、高野山も弁解の文書を提出した(又続宝簡集二十、仁治元年七月「金剛峯寺衆徒陳状案」)。後年、相論が再発したときに提出された品川清尚の訴状(資一〇号)によると、名手庄沙汰人百姓らは「あるいは甲冑(かつちゆつ)を着し、あるいは弓箭(きゆうぜん)(弓矢)を帯(お)び、数百騎の勢(せい)を引率せしめ、椎尾山畑の作麦五町を刈りとり、種々の狼藉(ろうぜき)をいたすのうえ、刄傷(にんじよう)におよ」んだ、という。幕府は六波羅探題北条重時に調査を命じた。寛元元年(一二四三)、重時は名手庄下司貴志(きし)太郎行政を取調べようとしたが、行正は、新任の下司であるから実情を知らない、高野山寺家沙汰人に尋ねられたい、と返答した。同年七月十六日、重時は高野山に手紙を送ってこの旨を通達し、名手庄庄官らの取調べを催促した(資七号)。丹生屋村地頭品川清尚の名がみえる文書の初出である。ただし清尚はこのとき丹生屋村に居住せず、地頭代正光にまかせていたらしい。

 それ以後、現存史料でみるかぎり、紛争は二五年後の文永五年(一二六八)まで続いた。翌寛元二年(一二四四)六月二十六日、地頭代正光が宣旨・院宣(天皇と上皇の命令)と六波羅探題の命にしたがい、名手庄庄官らの丹生屋村用水に対する妨害の中止を要求した(資八号)。同年六月下旬から七月中旬にかけて、六波羅探題は高野山と粉川寺の寺僧および名手庄下司貫志行政・公文代伊佐朝康・丹生屋村地頭代正光を召喚し、七ヵ日間にわたって取調べた(宝簡集三十、寛元二年七月「名手庄丹生屋村相論六波羅問注交名日記)。その結果、寛元三年(一二四五)六月四日、越前法橋頼円と富田入道西念(建長二年「官宣旨」では沙弥蓮仁)が六波羅の使として現地に赴き、紛争地の絵図を作った。取調記録と絵図は幕府に回送された。幕府は丹生屋村を粉川寺領、名手庄を高野山領と判定し、当時の裁判権の所管にしたがい、朝廷が裁定するように要請した(資一〇号)。その結果建長二年(一二五〇)十二月五日、太政官は高野山に官宣旨を下し、おおむね粉川寺の勝訴と裁決した(宝簡集三十、「官宣旨」)。以上が仁治二年(一二四一)に発生した紛争の経過である。

 紛争の論争点はいくつもあるが、大きな論点は、第一に丹生屋村の開発者の子孫という源義治が開いた椎尾山畑が、名手庄領か、それとも丹生屋村に属するか、という問題に決定的な結果をもたらす水無川の上流のありかをめぐる争い、第二は水無川の河道の変化に起因する境界論争、第三は用水利用をめぐる対立である。第一の論点について両者の主張をみると、粉川寺側は椎尾山畑の東を流れる東谷が水無川の上流であり、椎尾山畑は東谷の西側にあるゆえに丹生屋村内であると主張する。名手庄側は、水無川上流は椎尾山畑の西に流れる後谷であり、境界は椎尾山畑の中心の尾根であると主張する。太政官の裁決は、第一の論点について、寛元三年六月の六波羅使の実検のとき、当事者の承認のもとに作製した絵図にもとづいて、名手庄側が後谷を水無川の上流とする主張を否定し、椎尾山畑東側の東谷を水無川上流と主張する粉川寺側を正当とする判断を示した。ただし係争地椎尾山畑の帰属は、高野山と粉川寺と六波羅使との三者の絵図に相違が多いとして、裁決を保留している。第二の論点については、丹生屋村が粉川寺領となった正暦年間(九九〇~九四)の官符および名手庄が高野山領となった嘉承二年(一一〇七)の官宣旨にもとづいて、水無川を境界と断定し、旧河道を境界と主張する粉川寺側の主張を正当としている。第三の用水相論については、両者とも決定的な証拠なしとして、山林河沢の利益は公私ともに利用するという古法によって、従来の慣行を守るべし、と裁決した。

 紛争は、建長二年(一二五〇)の官宣旨による裁決では解決しなかった。翌年の建長三年(一二五一)に名手庄民が武装して丹生屋村に乱入し、用水の堰(せき)を埋め、村民に暴力をふるった。地頭品川清尚は、同年七月名手庄民の狼藉人の交名(きょうみょう)(名簿)を六波羅探題に提出(史料I)した。翌四年(一二五二)には春夏の二回、名手庄沙汰人百姓らの丹生屋村乱入事件があり、狼藉刄傷のうえ丹生屋村民の住宅を焼払ったという(又続宝簡集二十、建長四年三月「粉河寺衆徒愁状案・同年四月八日「粉河寺衆徒言上書案」)。このときの紛争の重点は水無川の用水堰の問題に移っていた。仁治二年(一二四一)紛争のときの「金剛峯寺衆徒陳状案」(又続宝簡集二十)によると、名手庄と丹生屋村は、すでに仁治二年に水無川用水堰の一の井・二の井と静川井の所有を争っているが、今度の紛争では、坂田堰と上堰という二つの堰が問題であった。六波羅探題は用水の中分(ちゅうぶん)を決定し、紀伊国衙の官人「惣官」某と、守護代と推定される藤原俊直を現地に派遣して、名手庄沙汰人の立会いを求めたが拒否された。そこで惣官らは、丹生屋村地頭清尚の申立を確認したうえ、両堰を中分して名手庄と丹生屋村に均等に分水する施設である「〓」を構築した(史料Ⅱ)(宝月圭吾氏は、「〓」という字は、木と斗=計の二字を合成して一字としたもので、計木すなわち用水の量を計る施設であろうと推定している『中世灌漑史の研究』)。

 名手庄民は堰の中分にあくまで反対して、分水〓を破壊したので、清尚はこのことを六波羅に訴えた。建長六年(一二五四)六月二十四日、探題北条長時は、守護代藤原基家に、名手庄民の分水〓遵守を命じた。守護代は国衙の官人と紀伊国の御家人を動員し、武力的威圧のもとに史料Ⅳのような、昨年どおりの分水〓を再建した(史料Ⅲ)。一方、清尚は正嘉元年(一二五七)八月、分水〓を破壊した名手庄民が六波羅の召喚に応ぜず、清尚が関東に下向している間に、ますます境界と用水に対して乱暴をくりかえしていることを訴え、六波羅での取調べと罪状の明らかなものは、幕府に召し下して尋問するように要請した(資一〇号)。幕府は清尚の訴えをうけ、同年九月二十九日、六波羅探題北条時茂に名手庄民の取調べを命じた(又続宝簡集二十、「関東御教書案」)。その結果がどうなったか明らかでないが、仁治二年以来、名手庄民のしぶとい抵抗と戦ってきた丹生屋村地頭品川清尚の名は、以後史料から消えてしまう。

 清尚のあとを継いだのは馬允為清である。読者は、近江国三宅郷十三町田を清尚から相続した為清の名を記憶しているにちがいない。為清は清尚の子で、丹生屋村地頭職を継承したのであろう。丹生屋村地頭品川為清の名は、弘長二年(一二六二)十月二日の「法務定親書状案(史料Ⅴ)」にはじめてみえ、ここでも名手庄沙汰人らが、六波羅への出頭を拒否している様子がみえる。さらに翌弘長三年(一二六三)七月十二日の「沙弥智眼請文案(史料Ⅵ)」によると、守護代沙弥智眼は、去年二月三日の六波羅の命令により、刄傷狼藉を働いた名手庄沙汰人百姓の六波羅召喚を執行しようとしたが、名手庄の下司と公文は交替し、前任者は召喚に応ずる義務はないといい、新任の庄官は事情を知らないと言逃れ、百姓もまた庄官の命令がなければ六波羅に参上できない、というありさまであった。六波羅探題北条時茂は同年八月、重ねて命令を出し、名手庄前庄官の六波羅出頭と、丹生屋府地頭為清との対決を、守護代と湯浅宗氏に厳命している(資二〇号)。為清の名は、現存の史料では弘長二年と三年の二ヵ年にしかみられない。五年後の文永五年(一二六八)三月八日、六波羅探題北条時茂・北条時輔は、またも守護代に名手庄民の六波羅出頭を命ずるが、このときの訴人は丹生屋村地頭代為久となっている。地頭為清は丹生屋村から離れていたのであろうか(宝簡集三十、「六波羅召文御教書」)。

 用水紛争は南北朝時代にもくりかえされた。『賢俊僧正日記』という記録によると、貞和二年(一三四六)五月二十三日に、室町幕府の使者富部周防守が賢俊を訪問し、名手庄と丹生庄の用水紛争につき、高野山の衆徒惣仙房と、名手庄公文源蔵人入道を幕府に召されたい、という品川三郎光清の訴状をもってきたので、賢俊はその旨を高野山に通達したという。南北朝期の丹生屋村地頭職を、清尚系品川氏の子孫と思われる品川光清が保ち、父祖以来の用水紛争を名手庄庄民とくりかえしていることがわかる。

 以上、名手庄と丹生屋村との境界・用水紛争の概略を追っただけで、かなりの紙数をついやした。一連の事件は、荘園史研究上有名な事例であって、触れなければならない問題は多いが、ここでは地頭品川氏の動きに焦点をしぼって考えてみたい。

 地頭品川氏は、約三十年間にもわたり朝廷の裁決にしたがわず、鎌倉幕府の強大な威勢に屈せず、抵抗しぬいた名手庄民の戦いに手を焼いたにちがいない。本国の武蔵では、当時の農民のあり方から考えて、おそらくそのような経験をもたなかったであろうから。しかし清尚にせよ為清にせよ、地頭はただの被害者ではなかったのである。

 仁治二年(一二四一)の紛争のとき、前述のように清尚は、名手庄沙汰人百姓ら数百人が同年五月十四日に、武装して丹生屋村内椎尾山畑山の作麦五町を刈取った、と訴えている。一方、名手庄側の主張は次のようである。もともと名手庄領である椎尾山を、名手庄の庄官であった義治入道が暦仁元年(一二三八)のころ、丹生屋村内と称してひそかに開墾して畠とした。高野山は、そのうわさを聞いて禁止したが、義治はそのようなことはないと返答してきた。高野山もそのつもりでいたところ、実は椎尾山の開発は着々と進んでいたのであって、名手庄の百姓は義治の威勢を恐れて高野山に報告せず、高野山も実情を知らないで過ごしてしまった。しかし義治のこのような多年にわたる悪行が露顕して、幕府に召喚され、そのとき重病で死去した。ところが丹生屋村地頭代長康は、義治遺領の椎尾山畑を没収地と称して差押さえてしまった。そこで名手庄側も、椎尾山はもともと名手庄領であるから、高野山定使の命令でこれを差押えた。しかも地頭代長康は、理由もなく作麦を刈取ったので、五月十三日に高野山の使と庄官が、現地に赴いて抗議したけれども、長康は「椎尾山畑の麦は以前から刈っていた、これからも刈取る」と答え、この日の夜も刈取を続けた。名手庄百姓は、残る麦はいくらもなかったけれど、もしそれを刈取らなかったならば、椎尾山畑が名手庄領でないという既成事実ができてしまうと考え、翌十四日に刈取ったのである、と(又続宝簡集二十、仁治二年七月「金剛峯寺衆徒陳状案」)。

 私たちは両者の主張を公平に判断する材料をもってもいないし、そうした立場にもない。しかし注目しなければならないことは、義治が開墾した椎尾山畑五町を地頭代長康が没収地と称して差押えたことである。義治は、丹生屋村を粉川寺に寄進したものの子孫であるという。しかも高野山の陳状(被告の弁明書)によると、地頭代は、名手庄から逃げ出し丹生屋村に住んでいる故義治の嫡男朝治と結託しているというのであるから、地頭代長康は、この地における開発地主の系譜をひく在地の有力者と結びつき、名手庄との紛争に乗じて五町というかなり広い椎尾山畑に対する直接支配にのりだしたのではなかろうか。丹生屋村地頭としての品川氏の得分(収入)はまったく明らかでないが、名手庄百姓久延の証言では、故義治は地頭に行縢(むかばき)皮(狩や乗馬のとき腰から下に着用する皮製のおおい)を進上していたということから考えると、地頭は雑税的な現物の収取から、椎尾山畑という土地そのものの支配への転換をはかったことは、十分に考えられるのである。長期間にわたる紛争に、地頭清尚・為清と地頭代長康・正光・為久が終始粉川寺と協力し、むしろ積極的に名手庄民の「濫妨・狼藉・刄傷」を訴えつづけた背景には、新任の地頭として丹生屋村に入った品川氏が、旧来の固定した地頭得分の収取から、より土地に密着した支配へ転換しようとする動機があったのではなかろうか。私たちは、丹生屋村地頭品川氏の紛争への関与を、鎌倉時代における地頭領主制の発展と、それがもたらす在地の変化という一般的な動向のなかにおいてみるとき、その意味をよく理解できるのである。紛争の結末ははっきりしない。しかし用水紛争は南北朝・室町時代にもたびたびくりかえされ、関係の文書が高野山に残っている。

 丹生屋村地頭品川為清の子が刑部左衛門尉宗清であることは『尊卑分脈』紀氏系図と、前述の「近江国三宅郷相伝系図」で明らかである。宗清は、永仁五年(一二九七)末ごろ発生した高野山天野社領和泉国近木(こぎ)庄(現大阪府貝塚市)に対する麻生五郎入道西入・高志四郎親藤子息らの武装乱入・作毛刈取・年貢押領の事件に関し、翌六年四月から九月にかけ、六波羅探題の使として犯人召喚の任務を与えられた(資一八号・宝簡集十九、正安二年閏七月「高野山雑掌良海言上書案」)。また正和元年(一三一二)に、和泉国大鳥郷前刀祢(とね)(庄官)宗綱の子息宗親法師らの、大鳥上条地頭田代基綱領乱入事件に関して、六波羅御使として宗親らの召喚の執行を命ぜられた(資二一号)。宗清がこのような任務を与えられたのは、かれが和泉国に在住する名の知れた御家人であったからであろう。

 鎌倉幕府が滅亡する元弘の乱の最中、楠木正成が河内で挙兵し、赤坂城や千早城で幕府軍をさんざん悩ませたことはよく知られている。元弘三年(一三三三)正月、前年末に本拠地赤坂を奪いかえした正成は、河内に転戦し摂津天王寺(大阪府)にまで攻めこんで六波羅軍と戦う。「正慶乱離資志(しょうけいらんりし)」(別名「楠木合戦注文」)という信頼できる記録の正月十四日の条に

一同年正月十四日、楠木河州において合戦をいたし、追い落さるる人々、

 河内守護代在所丹南、同国丹下・池尻・花田地頭俣野、和泉国守護并田代・品河・成田以下地頭家人 (原文は漢文)

 と記録されている。和泉国の守護に動員され、楠木勢に追い落とされた御家人の一人に品川氏がみえる。品川宗清その人か、宗清の子であったろう。

名手庄・丹生屋村相論の関係文書は『高野山文書』(『大日本古文書』家わけ第一)に所録されている。『品川区史資料編』では、そのうち品川氏に直接関係した文書だけを採録したが、右の本文中には他の関係文書を適宜利用した。それにくわえて、史料ⅠからⅥの文書は、昭和三十八年七月、高野山御影堂宝庫から発見された文書で、大石直正「名手庄・丹生屋村相論の新史料」(『月刊歴史』二八号、昭和四十五年十二月)で紹介された。品川氏を研究するうえに重要な史料であるから本文を掲載しておきたい。

史料Ⅰ  名手庄住民狼藉人交名注文

 注進 高野山領名手庄住民等、帯弓箭、着甲冑、乱入丹生屋村、或埋用水堰、或致打擲刃傷狼籍人等交名事

    合

 左案主 田仲次郎行事 浄勝官主

 浄勝四郎 正行事 六郎行事

 高声法師 和泉小行事 源次郎

 幸僧次郎 岡五郎 関徳法師

 遠童 次郎行事 正検校

 宗包男 礼仏法師 津助 紀助

 権助 津留惣行事 相語法師

 中蓮法師 庁頭 美乃助 新行事

 右狼藉人張本注進之状如件

   建長三年七月 日

 

史料Ⅱ  藤原俊直并惣官用水中分状案

 

紀伊国名手庄与丹生屋村令相論水無河用水中分間事、任御教書之旨、度々雖触遣、不叙用之間、莅彼論所、又重々雖触遣子細於名手庄沙汰人之所、不出対之上、以御教書之状、如被仰下、丹生屋地頭(品川清尚)申状無相違之間、両堰上下建長五年七月十八日令計中分両方畢、仍為後日注文状如件、

   建長五年七月十八日        惣官判

                  藤原俊直判

 

史料Ⅲ  紀伊国惣官等請文案

紀伊国名手庄与丹生屋村堺并用水相論之間事、任武家所注絵図并記録所勘状、聖断既畢、依之、去年七月十八日任通用 綸旨并六波羅殿御下知状、為守護所奉行、相率御家人等、切立用水中分之〓畢、而名手庄不叙用之、切破彼分水〓畢云々、而今年依重訴訟、任先下知之旨、可致其沙汰之由、下賜六波羅殿御教書之間、任御下知、如去年切立用水中分〓畢〓寸法日記、在別紙、後代敢不可違犯矣、

             

   建長六年七月六日   俊基嫡男藤内兵衛宣盛嫡男惣官藤原俊継判

            惣官田井兵衛尉俊基法名西念二男也

             守護代左兵衛尉藤原基家判

 通用 綸旨并六波羅殿御下知状明白也、仍御家人等加署判矣

             中村左衛門尉藤原盛継判

             平田左馬允大中臣家宗判

             和佐左衛門尉藤原家俊判

             栗哂法橋上人長禅判

            小倉新庄沙弥順宗判

             岡崎平楠王丸判

             小倉大伴明王丸判

 

史料Ⅳ  水無川堰中分〓寸法注文案

 註(注)進 無水(水無)河用水中分〓寸法事

 一 坂田堰 〓長一丈五尺 〓水口弘二尺六寸 厚八寸 高一尺二寸已上寸法両方同前 〓中間三尺

 一 上堰 〓長一丈四尺五寸 〓水口二尺六寸 深四寸 高七寸已上寸法両方同前 〓中間三尺

 右、二箇所堰用水中分〓寸法注文如件

   建長六年七月六日  惣官藤原俊継判

           守護代左衛尉藤原基家判

 

史料Ⅴ  法務定親書状案

  (端裏書)「新熊野御房返状并[  ]三通」

紀伊国丹生屋村地頭品河馬允為清申、高野山領名手庄沙汰人等狼藉事、仁治以来長者十代間不事行候、今月十五日以前難召連候、一向忽諸寺務、不随下知候、仰守護所、可被召取候也、恐々謹言、

    (弘長二年)十月二日    法務(定親)在御判

   追申

    (品川)為清所進具書等上進(カ)也、寺務忽諸之子細、世以無其隠候、

 

史料Ⅵ  沙弥智眼書状案

品河馬允為清申紀伊国名手庄沙汰人百姓等刃傷狼藉間事、御教書去二月三日謹下給候畢、即相具守護代使者、任被仰下候之旨、雖令催促候、彼庄下司公文改補之間、依為前庄官、不及申子細之由、遁申候、於新司等者、不知沙汰根元候之間、進退谷候、百姓等又不蒙庄官下知候之上者、不及参上之由申上候之間、催促難事行候、以此旨可有御披露候、智眼恐惶謹言、

     (弘長三年)七月十二日    沙弥智眼状

    進上 検断御奉行御中