江戸時代の中ごろ、防長二州を領する長州藩(毛利家)は、家臣から系図と伝書と古文書を提出させて「新譜録」を編纂した。そのうちの一冊に、医師品川玄貞実安の「略系並伝書御奉書之写」がある。この帳面は、次のような書き出しではじまる。
品川玄貞実安家姓は紀、武蔵国荏原郡品川に住す、在名をもって品川と称す、
武内宿禰二拾六代孫伊藤兵三武者実直三男品川三郎清実末葉歴代を知らず
品川実安家の系図は、元禄十四年(一七〇一)に死んだ勘四郎実信から始まり、それ以前の系図と由来はまったく不明であって、この家が品川氏のどの系譜に属する子孫であるかわからないが、江戸時代の長州藩の家臣に、品川氏始祖清実の子孫と称する家があったことを知るのである。
ところで、中国地方の品川氏に関する史料は、どの時代までさかのぼることができるだろうか。つぎの文書は室町時代の地方政治の動向を左右した、いわゆる国人(こくじん)の地域的結合(一揆(いっき))の著名な史料である。
安芸国々人同心条々事次第不同
一無故至被召放本領者、一同可歎申事、
一国役等事、依時宜可有談合事、
一於是非弓矢一大事者、不廻時剋馳集、為身々大事可致奔走事、
一於此衆中、相論子細出来者、共令談合、就理非可有合力事、
一京都様御事者、此人数相共可仰 上意申事、
若違背此条々者、
日本国中大小神祇、別者 厳島大明神 御罸、各々可罷蒙候、仍連署之状如件、
応永十一年九月二十三日
小河内沙弥妙語(花押)
郷原修理亮清泰(花押)
窪角左近蔵人氏則(花押)
横山右近蔵人高実(花押)
山県八郎左衛門尉親正(花押)
久芳上野守秀清(花押)
児玉豊前守広家(花押)
長江丹後守景光
忍次郎右衛門尉景貞(花押)
遠藤修理亮直俊(花押)
横山若狭守高経(花押)
市河左近将監信貞(花押)
金子勘解由左衛門信親(花押)
完戸右京亮在家(花押)
井原美作守在教(花押)
香河修理亮之正(花押)
三須次郎兵衛尉忠清(花押)
毛利越後守元衡
毛利大江親秀(花押)
毛利沙弥宗護(花押)
品河近江守実久(花押)
熊谷沙弥直会(花押)
温科出羽守親理(花押)
天野沙弥昌儀(花押)
伴兵部大夫経房(花押)
毛利大江広身(花押)
小幡山城守親行(花押)
厳島安芸守親頼
毛利備中守之房(花押)
平賀沙弥妙章(花押)
天野式部大輔宗政
能富形部少輔重氏(花押)
のうみちくせん守□□(花押)
(毛利家文書)
(本文の訓読)
安芸国国人同心条々の事次第不同
一故なくして本領を召し放たれれば、一同に歎き申すべきこと、
一国役等のこと、時宜(じぎ)により談合あるべきこと、
一是非の弓矢一大事においては、時剋をめぐらせず馳(は)せ集まり、身々の大事として奔走(ほんそう)いたすべきこと、
一この衆中において相論の子細出来(しゆつたい)すれば、共に談合せしめ、理非について合力(ごうりき)あるべきこと、
一京都様の御事は、この人数あい共に□上意を仰ぐべきこと、もしこの条々に違背せば
日本国中大小神祇(じんぎ)、別しては 厳島大明神の 御罸を、おのおのまかりこうむるべく候、よって連署の状くだんのごとし、
応永十一年九月廿三日
この文書は安芸国人三三名の一揆契約状である。安芸国は守護武田氏(甲斐武田氏と同族)が弱体で、守護が国人を結集組織できない状態にあって、有力国人は①理由のない所領没収に対する共同抗議、②一国単位に賦課される国役についての協議、③武力連合、④紛争の平和的解決、⑤将軍の命令に対する共同行動を契約し、安芸一国の共同支配をはかったのである。三三人の国人の多くは、鎌倉幕府の御家人の系譜をひく地頭領主であり、宍戸・熊谷・平賀・天野氏のように、のちに戦国大名毛利氏の家臣に編成された一族も含まれている。さて、一揆契約の参加者に品川近江守実久の名がある。実久の先祖が誰であり、いつごろどのようにして安芸国に移り、また実久がどこにいたか、今のところ不明である。しかしこの一揆契約状によって実久が室町時代中ごろに、他の有力国人に互して一揆に参加できるほど確固とした地盤を安芸国内もっていたことがわかる。おそらく実久は、鎌倉時代のある時期に、幕府から安芸国内の地頭職を与えられ、地頭領主として成長した品川氏の一流の子孫であったろう。
それから約百年後の明応八年(一四九九)の史料に、品川膳員という人物がみえる文書が『毛利家文書』に現存する。
上意御窺之事、并内部庄伊豆守(武田元信)一行之儀、急度遂註(注)進、可申達候、聊不可有無沙汰候間、以連署申入候、猶委細吉河(経基)殿へ申候、
(追筆)「明応八年」三月六日 (武田)元繁(花押)
品河左京亮膳員(花押)
香川美作守質景(花押)
今田土佐守国頼
壬生源蔵人太夫国泰(花押)
山中丹後守宗正(花押)
白井弾正太夫元胤
中村修理進質茂(花押)
熊谷民部丞膳直(花押)
戸坂参河守信定(花押)
毛利治部少輔(弘元)殿参
(本文の訓読)
上意御窺(うかがい)のこと、ならびに内部庄伊豆守一行(ぎよう)の儀、急度(きつと)註(注)進をとげ、申し達すべく候、いささかも無沙汰あるべからず候あいだ、連署をもって申し入れ候、なお委細吉河殿へ申し候、
追筆「明応八年」三月六日
明応八年(一四九九)当時、安芸国守護は武田元信であり、その従弟が連署状の筆頭に署名する武田信繁である。この文書の内容ははっきりしないが、守護の縁者と有力国人が、守護武田元信への援助を同格の国人毛利弘元(元就の父)に通達しているのである。膳直を応永ごろの実久の子孫と考えれば、安芸品川氏は守護方の国人一揆の一員という地位を保っていた、といえよう。
守護武田元信は若狭国守護を兼ねていた。永正のはじめごろ(十六世紀初頭)、元信は若狭に移り、安芸国守護職は武田信繁が継承した。それよりさき明応二年(一四九三)、細川政元に追放された将軍足利義稙は、周防の大内義興をたよって亡命していたが、永正五年(一五〇八)義興は義稙を奉じて上洛し、義稙を将軍に復して、以後一二年間京都にあって威勢をふるった。義興に属する武田信繁は安芸に在国し、義興から離反して大内方の国人の平定をくわだて、毛利興元(元就の兄)と対立した。永正一三年(一五一六)に毛利興元が死去し、子幸松丸が継いだ。元繁は毛利氏への圧力を強め、翌十四年(一六一七)山県郡に侵入して小田信忠の有田城(広島県山県郡千代田町有田)をかこみ、毛利氏の本拠郡山(高田郡吉田町)をおびやかした。そこで故興元の弟(高田郡多治比保領主)元就は、吉川元経と連合して同年十月二十二日、山県郡中井手(山県郡千代田町丁保余原)に元繁と戦った。戦国の雄毛利元就の初陣といわれる合戦である。元就は大勝利をおさめ元繁をはじめ、七百余人を殺し、守護武田氏に再起不能な打撃を与えた(渡辺世祐『毛利元就卿伝』上)。
この中井手合戦について、後世つくられたいくつもの軍記類が書いている。江戸時代に作られ毛利三代(元就・隆元・輝元)の武功をしるす『安西軍策(あんざいぐんさく)』もその一つである。同書によると、元就の出撃に対し、元繁は伴五郎繁清と品川左京亮信定に、七百余騎を与えて有田城の押えとし、みずから八百騎をひきいて元就と戦った、という。後世の軍記であるから品川信定の実在性は不確実であるが、前掲明応八年(一四九九)の「武田元繁等連署状」にみえる品川膳員と同じ左京亮を称して、膳員と親近性があること、同文書に連署する熊谷膳直の子元直が、元繁の部将として中井手合戦で討死している(『熊谷系図』)ことから、元繁の部将品川信定の実在はほぼ確実であろう。おそらく信定は守護方の国人として元繁にしたがい、有田・中井手の合戦で元就に撃滅され、信繁と運命をともにしたのではなかろうか。
それ以後、安芸品川氏の姿は歴史の表面から消えてしまう。毛利氏は戦国大名に成長する過程で、応永十一年(一四〇四)の国人一揆に加わった有力国人を「国衆」に組織して行くが、品川氏の子孫は「国衆」になっていない。品川氏は戦国争乱の渦中に脱落した国人であった。いま諸史料から安芸品川氏に関する史料を抜き出して年代順に配列すると、第13表のようになる。
年次 | 摘要 | 史料 |
---|---|---|
弘治4(1558).6.25. | 毛利元就の命令により,桂元忠ら毛利氏奉行人が,品川与次郎に周防国左波郡富海内で田8反を与える。 | 『萩藩閥閲録』巻158 赤川半兵衛組足軽品川与平次 |
永禄8(1565).正.6. | 毛利元就が,品川与次郎に次郎左衛門尉の称を与える。 | 同上 |
永禄ごろ | 毛利元就が熊谷就真の母三入局に500貫文の所領を与えることについて,平佐就之と井上就重が品川与四郎信好に書状を送る。 | 『萩藩閥閲録』巻127 大組熊谷彦右衛門 |
元亀元(1570).5.1. 〃 8.4. |
毛利輝元が熊谷就真に岩国金輪木90貫文の知行を与えることについて,児玉就方が品川信好と細迫伊勢守に書状を送る。 | 同上 |
天正3(1575).正.1. | 備中国手要害攻撃のとき,品川源右衛門尉・品川又右衛門尉・品川市法代・品川弥九郎が,熊谷高直の手に属し,それぞれ頸1を討取る。 | 『毛利家文書』375 |
慶長5(1600).8. | 関ケ原合戦に先立ち,吉川広家が伊勢国津城を攻撃したとき,品川二右衛門尉が益田元祥の手に属し,頸1を討取る。 | 『毛利家文書』379 |
〃 〃 | 伊勢国津城攻撃のとき,品川助兵衛が吉川広家の手に属し,討死する。 | 『吉川家文書』728同追加 2 |
慶長10(1605)正.12. | 毛利輝元が品川与平次に次郎左衛門尉の称を与える。 | 『萩藩閥閲録』巻158 赤川半兵衛組足軽品川与平次 |
〃 12.14. | 熊谷元直の処刑後,毛利輝元に提出された家中819名の連署起請文に,品川源右衛門尉と品川九郎兵衛が署名する。 | 『毛利家文書』1284 |
この一覧表によると、永禄・元亀年間に毛利氏の重臣熊谷就真(本家熊谷高直の弟)の家臣に品川信好が、天正ごろ熊谷高直の家臣に品川氏一族がみえ、同じように近世初頭の慶長ごろ毛利氏の永代家老益田元祥と毛利氏の分家吉川広家の家臣に、品川姓を称する人々があった。また『萩藩閥閲録』が編纂された享保ごろ、赤川半兵衛組の足軽品川与平次が藩庁に提出した文書に、弘治・永禄ごろの品川与次郎と、慶長ごろの品川与平次がいる。これら各氏の系譜は不明であるが、戦国争乱の過程で品川氏一族が毛利氏の上級家臣や分家の家臣(陪臣)か、あるいは毛利氏の下級家臣に吸収されていった事情をたしかめることができる。江戸時代初頭における大名の家臣団構成は、抗争してやむことがなかった中世領主階級の活動の結果を示しているのであるから、安芸品川氏の子孫たちが近世初頭という時代に占めた位置に、私たちは歴史の渦中にまきこまれ没落した一族の姿をみるのである。
品川氏一族は安芸国のほかにも分布する。大田亮編『姓氏家系大辞典』は、「陸奥の品河氏 浪岡御所配下の将に此の氏あり、津軽郡中苗字に見ゆ」、「石見の品川氏 美濃郡久代村屋敷は守将を品川勘兵衛と云ふ、又『品川隠岐守員永、同平三郎将員等、永禄十年、仙道八幡宮に田地の状を渡す(石見家系録)云々』と、又吉見広行の女は品川氏に嫁す(吉見系図)」、「雑載徳川時代、岩槻大岡藩用人(武鑑)、京極殿給帳に『八拾石、品川喜右衛門』、また加賀藩給帳に『参千石、紋(五三の桐)人持内七百石与力知・品川左門』、また大村藩、越後の名族にもあり」と各地における品川氏の分布を指摘している。