大井氏や品川氏の一族が本拠地である品川・大田区域の所領を維持しながら、薩摩や近江・和泉・紀伊・安芸などの遠隔地所領の支配に努力していた鎌倉時代の中期以後、幕府の体質は幕初における鎌倉殿(将軍)専制体制から大きく変化した。執権政治の展開である。北条氏は、もと伊豆国田方(たかた)郡北条(現静岡県田方郡韮山町)に住む在庁官人であったが、千葉氏・小山氏・畠山氏らにくらべると、それほど有力な一族ではなかった。しかしよく知られているように、北条時政の娘政子が頼朝の妻になり、頼朝の挙兵当初から協力したので、幕府内に隠然たる地位を占めた。時政は文治元年(一一八五)に頼朝の代官として上京し、朝廷と守護・地頭設置の交渉にあたったほかには、頼朝の在世中にたいした活躍をしていない。
正治元年(一一九九)頼朝が死に、子頼家が継ぐと、鎌倉殿専制のひずみがたちまち表面化した。頼家は御家人の妻を奪ったり、鎌倉市内で乱暴を働く側近の御家人に敵対するものを処罰する、という非常識な命令を出したり、御家人の所領訴訟のとき、絵図の真中(まんなか)に一線を引いて判決とし、広狭は運次第だと言い放ったという。御家人たちが頼朝を盟主にもりたて幕府に結集したのは、所領の維持が不安定な旧来の国家秩序を破って所領支配を安定させ、また所領争いを公平に処理してくれる権威を望んだからであった。頼家のような将軍では御家人たちのもっとも大事な要求が無視されてしまう。幕府の元老が頼家の親裁を停止し、大江広元・北条時政ら一三人による合議制をしいたのは、御家人たちの要求に応ずる処置であったのである。こうして執権政治の最大の特色である合議制の端緒がひらかれた。
北条時政は、建仁三年(一二〇三)頼家の舅比企能員(しゅうとひきよしかず)を殺して頼家を廃し実朝を将軍に立て、大江広元とならんで政所別当(まんどころべっとう)(長官)になった。この職を執権といった。時政の子義時は、建保元年(一二一三)に侍所(さむらいどころ)別当和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の両別当を兼ねて幕府の実権をにぎった。三代執権は名執権とうたわれた泰時であり、泰時は嘉禄元年(一二二五)に執権のもとで立法と行政を合議する評定(ひょうじょう)衆を設置し、貞永(じょうえい)元年(一二三二)には「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定して、おもに訴訟裁判における客観的な基準をもうけた。宝治元年(一二四七)に三浦泰村を倒した五代執権時頼は、建長元年(一二四九)に土地関係の訴訟処理の能率をあげるため、評定衆の下に引付(ひきつけ)という合議審理機関を置いた。御家人の代表者をふくむ評定衆―引付という合議審理機関の設置は、頼朝が貴族の家政機関をまねて設置した政所が、将軍独裁の補佐機関にすぎなかったのにくらべると、理念と運用において大きなへだたりがあったのである。「執権政治こそは幕府政治史上、御家人層にとってもっとも光輝ある最良の時代であり、かれら東国在地領主層の権力をもって『幕府』とよばれるならば、幕府の真の意味における成立は、まさしくこの時代であった」(石井進「鎌倉幕府論」『岩波講座日本歴史』5所収)と高く評価されるのも、この点が重視されるからである。
次に執権政治下の武蔵国の様子をみよう。武蔵国は元暦元年(一一八四)以後、関東御分国という将軍家の知行国であり、国務の執行者である武蔵守は、将軍が朝廷に推薦して任命された。幕府のもとでの初代武蔵守は平賀義信であった。義信は、頼朝が死んだ正治元年(一一九九)ごろまで在職し、以後、平賀朝雅――北条時房――大江親広――北条泰時と継承される。ところで平賀朝雅が武蔵守であったとき、朝雅の舅北条時政が、武蔵国の国務を代行した形跡がある(『府中市史』上)。朝雅は武蔵守在職中の建仁三年(一二〇三)十月に京都警固役として上京し、そのまま京都に駐在する。朝雅が上京して間もない十一月、将軍実朝が侍所別当和田義盛を通じて「武蔵国の御家人は時政に二心をいだいてはならない」という命令を下した。幼い実朝が自分の意思でこのような命令を出すはずはない。比企能員を倒したばかりの時政が、武蔵国の御家人を掌握したい意図から出たことは明らかである。二年後の元久二年(一二〇五)に時政は畠山重忠を滅ぼすが、武蔵の御家人の多くは幕府軍に加わった。大井・品川・春日部・潮田の大井氏一族や児玉・横山・金子・村山らの中小武士団が、武蔵国国衙の実権をにぎる畠山重忠に味方せず、時政にしたがったのは、時政が武蔵御家人の掌握に成功したことと、御家人たちの北条氏に対する期待が一致した結果であったろう。
建永二年(一二〇七)に、執権義時の弟時房が武蔵守となり、建保五年(一二一七)まで在職した。時房在職中の承元四年(一二一〇)に武蔵国の大田文(おおたぶみ)(土地台帳)が作られた。『吾妻鏡』によると、建久七年(一一九六)に土地調査がおこなわれたが、まだ帳簿にまとめられなかったという。時房は大田文の完成を機会に、国務の執行体制の強化をめざして、建暦二年(一二一二)に武蔵国の有力御家人を諸郷の郷司に任命した。幕府の成立にいたる動乱と、比企・畠山の乱で没落した在庁官人や郡郷司のあとを確認し、国―郡―郷支配の強化をはかったのであろう。しかしこの政策は前代の国衙体制の踏襲といえないことはない。はたせるかな執権義時の嫡男泰時が反対した(『吾妻鏡』)。泰時は郷司クラスの有力御家人の台頭を恐れた、と考えられる。武蔵国の大田文は現存しない。幕府作成の大田文には、庄郷保別に田の面積と、地頭・下司(げし)・郷司などの人名を記載するのが普通であるから、もし現存すれば武蔵全体の領有関係と、大井氏と品川氏を大井郷・六郷保・品川郷の郷司と考えたわたくしたちの推定(原始古代編第四章)も、たしかめられるのである。大田文が現存しないのは非常に残念である。時房のあと、大江広元の子親広が武蔵守になったがごく短期間におわり、承久元年(一二一九)から暦仁元年(一二三八)までのほぼ二〇年間、北条泰時が武蔵守となった。このうち後半の一六年間に泰時は執権の地位にあり、北条氏得宗(とくそう)(本家)の武蔵国支配は本格化した。その後武蔵守は北条氏一門に独占されるが、北条氏の分家が現任の武蔵守であっても、国務は執権職にある得宗がおこなうという体制ができあがった。そして武蔵国の国衙領が北条氏の所領になっていった。第93図は、奥富敬之氏が作成した武蔵・相模国における北条氏一門の所領分布図(奥富敬之「武蔵相模における北条氏得宗」『日本歴史』二八〇)であるが、そこに大井秋春系の所領六郷保大森郷があることに注意したい。その史料は明徳二年(一三九一)十一月に、関東公方足利氏満が、下総国大慈恩寺に六郷保大森郷を寄進した寄進状で、そこに「陸奥五郎跡」と注記されている(資三五・三六号)。そしてこの大森郷のなかに永富郷がふくまれていることは、応永十一年(一四〇四)の「関東公方足利満兼御教書」(資四二号)で大慈恩寺の塔婆料所「武蔵国六郷保内大森・永富両所」とあることから明白である。ところで大森・永富両郷の地頭職が、秋春系大井氏の相伝の所職であり、祁答院(けどういん)行意が幕府の滅亡が近い元徳三年(一三三一)に、養子大井千代寿丸に譲与している。だから「陸奥五郎」という明らかに北条氏一門の人物が、大森・永富郷に対してもった権利は地頭職ではない。時代はずいぶんさがるが、応永三年(一三九六)七月に、室町幕府管領斯波(しば)道将が、上杉憲定に六郷保郷司職を与えている(資三九号)ことから考えると、陸奥五郎の所職は大森・永富郷をふくむ六郷保郷司職であったろう。わたくしたちは前に大井氏一族の始祖大井実直を、国衙領六郷保郷司と想定した。それが鎌倉時代のいつごろか、六郷保郷司陸奥五郎(北条氏)―大森・永富郷地頭秋春系大井氏という関係に変化したのである。要するに北条氏の武蔵国支配が進む過程で、六郷保郷司職が大井氏の本家をはなれ、北条氏の一門の手に帰属したことになる。そうだとすれば、大井氏にとって大きななげきであったろう。しかし大井氏が郷司職というもともと国衙の官職にともなう領主権に執着して、独自の支配を所領におよぼす努力を怠ったとすれば、武蔵国の国衙を掌握した北条氏に対抗できるはずがない。大井氏一族の本拠地における没落の原因も、そこにあったのではあるまいか。
南品川五丁目の海晏寺に、執権北条時頼の墓と称する五輪塔がある(第九四図)。下層正面に「最明寺殿覚了房道崇」、裏面に「弘長三癸亥十一月廿二日 正五位下行相模守平元帥時頼」と銘文がきざまれている。同寺の寺伝によると、建長三年(一二五一)、品川の海岸に大鮫が漂着した。漁夫が腹をさいたところ、正観音の木像があらわれた(鮫洲の地名起源)。時の執権時頼が聞き、奇瑞であるとして一寺を建立して海晏寺と名づけ、開山を建長寺開山の大覚禅師(蘭渓道隆)とし、百貫の地を供養料に寄進した。ついで弘安五年(一二八二)、執権時宗が霊夢を感得したので寺中に一堂を建て、平生持念の阿弥陀仏を奉安して二〇貫の地を寄進した、という(『新編武蔵風土記稿』)。また海晏寺境内には、幕府滅亡時の政所執事で、北条氏の専制を支えた二階堂貞藤(出羽守・法名道薀)の墓と伝える五輪塔があり、また北品川の品川神社の社伝は「当国守護二階堂出羽入道道薀」が元応元年(一三一九)に社殿を再建したと伝え、文和三年(一三五四)に貞藤が北品川清徳寺の塔頭(たっちゅう)光厳寺を建立した、という伝承がある(『新編武蔵風土記稿』)。これらの伝承を検討すると、時頼の海晏寺建立を証する史料はなく、蘭渓道隆の事績にも海晏寺開山の形跡がない。時頼の墓といわれる五輪塔は、形式上室町時代末期か戦国時代のものである。二階堂貞藤に関する伝承については、鎌倉時代の武蔵国に守護がおかれたことはなく(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)、かつ貞藤は建武元年(一三三四)に処刑されている。こうしてみると、伝承そのものを事実とみることはできない。しかし、品川と北条氏との密接な関係が伝承から暗示される。このことは、北条氏が東京湾西海岸の主要港である六浦(むつら)港を早くから掌握し、神奈川港がある鶴岡八幡宮領神奈川郷を押えたらしいことと関連して、おそらく鎌倉時代から港の機能をもっていたであろう品川に、北条氏のなんらかの支配がおよんだことの反映であったろう。
さて、鎌倉時代後期の幕府政治は、いわゆる得宗専制という政治体制に移行する。それはまず北条氏得宗と、執権職の分離というかたちであらわれ、得宗が執権職を嫡子あるいは一族に譲ったあとも幕政を主宰して、執権職の形式化をもたらした。さらに得宗の家臣である御内人(みうちびと)が幕府の政治機構に入りこみ、隠然たる勢力を作った。時宗の時代になると、執権が評定衆とともに幕政を合議決裁するという執権政治は形ばかりのものとなって、政務は御内人の有力者が、時宗の私邸に集まって開く「寄合」で決定されるまでになった。弘安八年(一二八五)の安達泰盛の乱は、安達氏ら御家人勢力と、平頼綱を頭首とする御内人勢力との抗争の爆発であったが、安達氏の滅亡は、北条氏得宗によって権力を獲得しようとする御内人の勝利を意味した。一方、元寇をきっかけに、北条氏一門の守護職と地頭職の集中が進行し、御家人たちの不満がつもってゆく。北条氏が御家人からみはなされ、非御家人武士の反幕府の行動が高まったとき、後醍醐天皇を中心とする公家勢力の捲きかえしにあって、鎌倉幕府は滅亡への道を急速にたどったのである。
元弘元年(一三三一)八月、近臣吉田定房の密告により倒幕計画を幕府に知られた後醍醐天皇は、京都から脱出して笠置に籠った。天皇は笠置落城ののち捕えられ、翌年隠岐に流された。幕府は承久の変のとき、後鳥羽上皇を隠岐に流した先例にならったのである。事変はこれでおさまるかのようにみえた。しかし元年九月に楠木正成が挙兵して、幕府軍とねばり強く戦い、天皇の皇子護良(もりなが)親王が大和・紀伊を転々として、寺社や武士の蜂起をうながし、翌二年播磨の赤松則村が挙兵して、山陽道を攻めのぼり、京都をおびやかす勢いをしめしているうちに、三年(一三三三)閏二月に天皇は伯耆の武士名和長年をたよって隠岐を脱出した。幕府は外様(とざま)御家人の有力者足利尊氏に大軍をつけて西上させた。しかし尊氏は、丹波篠村(しのむら)で反幕にふみきり、京都に攻めこんで五月七日に六波羅を陥した。同じころ(五月八日)上野の新田義貞も討幕の兵をあげ、上野と越後の一族を中心に関東の武士を率いて武蔵に入り、久米川・分倍河原(ぶばいがわら)の合戦で幕府の守備軍を破り、五月二十一日鎌倉へ突入した。翌二十二日、北条高時は葛西ヶ谷(かさいがやつ)(鎌倉市小町)の東勝寺に入り、一族郎党とともに自殺して鎌倉幕府は滅亡した。