後醍醐天皇は六月五日に京都に帰還した。そして年来の政治理念を実行に移そうとして、幕府が擁立した持明院(じみょういん)統の光厳(こうごん)天皇を廃し、みずからの皇位を確認して天皇親政を復活させた。翌年正月に、後漢(こうかん)の光武帝が漢王朝を再建した嘉例にならい、建武と改元した。新政策が次々と実行された。中央機関として記録所(政務)・雑訴決断所(所領訴訟裁決)・武者所(武士統制)が設置され、地方には国司と守護を併置して、行政と軍事をつかさどらせた。
しかし新政策は徹底した儒教的政治思想から出発していたので、その結果いちじるしい非現実的な政治があらわれた。新政府発足直後に出された、所領の個別安堵の法令がその例で、所領の所有権は安堵の綸旨(りんじ)(天皇の命令)がなければ法律的に保障されないというのであるから、諸国の武士が所領安堵の申請に争って上京し、「本領ハナルル訴訟人、文書入タル細葛」が京都にあふれる、という混乱を生み出した。あわてた政府は、元弘三年(一三三三)七月には、「高時法師党類以下朝敵与同の輩」以外の武士の所領を安堵する官符を出して、個別安堵法を撤回した。新政府は初政において大失敗を演じたのである。また地方行政の運営においても、天皇は幕府の守護制度を否定し、律令制地方制度の復活を試みたが、現実には守護制度を無視できず、現実と妥協して国司と守護の併置という形をとらざるを得なかった。このようにして後醍醐天皇の主導のもとに、異常な情熱をもって遂行された「中興」政治は、社会の現実と衝突し、その復古的な非現実性を暴露してしまった。
足利尊氏は、丹波篠村で倒幕にふみきったとき、諸国の守護や有力御家人に密書を送り、倒幕の軍に加わるよう呼びかけた。そして六波羅を占領すると、そのまま陣をかまえて旧探題の機構を押え、尊氏の催促に応じた武士や、降伏した千早(ちはや)城攻囲中の幕府御家人ら(その多くは東国の武士)を傘下におさめた。後醍醐天皇は尊氏を戦功第一のものとして鎮守府将軍従四位下左兵衛督に任じ、武蔵・上総の守護とした。弟直義は左馬頭兼相模守護となった。天皇は尊氏をたくみに中央機関からしめだしたが、平安時代以来、東国の武士に人気のある鎮守府将軍に尊氏が任ぜられたこと、鎌倉時代に北条氏が掌握してきた武蔵・相模の守護職を尊氏兄弟が獲得したこと、尊氏の嫡子義詮(よしあきら)が幕府滅亡後も鎌倉にとどまっていたこと、さらに直義が皇太子成良親王を奉じて鎌倉に下り、親王の執事として関東十ヵ国を管轄したこと(元弘三年十二月)などは、おおくの武士に足利氏こそ北条氏に代わって武士政権の首長たるべし、という期待をいだかせた。
佐藤進一氏は成良―直義の関東下向を、元弘三年(一三三三)十月に陸奥守北畠顕家(あきいえ)が義良親王を奉じて陸奥に下り、関東に本領をもつ奥羽の地頭・豪族を掌握して、関東の牽制をめざす「東北小幕府」構想に対する尊氏の逆手どりであり、「東北と関東の地に生まれた二つの小幕府は、顕家は国司とよばれて発給文書に王朝系様式の国宣(こくせん)を用い、直義は執権とよばれて、幕府系様式の御教書(みぎょうしょ)を用い、国司方はその機構に若干の貴族を採用するなどの違いはあるにしても、総体的には、どちらも旧鎌倉幕府のミニアチュア版であった」と考えられている(佐藤進一『南北朝の動乱』『日本の歴史』9)。
故渡辺世祐氏は元弘三年(一三三三)十二月より建武二年(一三三五)十二月にいたる二年間の直義の鎌倉滞在中の施政をあげ、それは「鎌倉府をして独立の執務をなすの例を残」し、「足利氏の天下を掌握すべき基礎、及び鎌倉府の具体的創設は明にこの時に成れり」としている(渡辺世祐『関東中心足利時代之研究』)。このようにして南北朝・室町時代前期の関東を支配した小幕府=鎌倉府が、建武新政下に成立したのである。
「大井文書」に建武元年(一三三四)九月八日、雑訴決断所の牒(ちょう)にまかせて、某が宮内少輔太郎入道に、大井千代寿丸の所領武蔵国荏原郡大森・永富両郷地頭職に対する「悪党」の妨害排除を命ずる文書案が残っている。建武新政期に足利尊氏は、武蔵守兼武蔵国守護であったから、雑訴決断所牒を施行したのは尊氏である。宛所は武蔵国目代あるいは守護代の一色範氏である(資二四号第九七図)。
建武二年(一三三五)七月に北条高時の遺子時行が信濃に挙兵し、武蔵で直義の軍を破り、鎌倉を占領した(中先代の乱)。直義は成良親王と義詮をともない三河まで敗走する。中先代の乱は、尊氏にまたとない好機を与えた。なぜならかれは武蔵守兼武蔵守護として鎌倉防衛の義務があったのであるから。尊氏は出陣に先立ち、天皇に、武家政権の首長を意味する征夷大将軍への任命を要請して断わられた。八月二日尊氏は東征の途につき、駿河以東の東海道の各地に時行の軍を破り、八月十九日に鎌倉を奪回した。天皇は尊氏の離反の徴候を認めて上京を命令したが、尊氏は若宮小路の旧将軍家邸跡に新邸を建て、反政府の姿勢を明らかにした。ついで十二月、新田義貞討伐を名目に西上の軍をおこし、以来六〇年間におよぶ南北朝動乱の幕開けとなった。それから一年後の建武三年(一三三六)十一月、尊氏は天皇の和睦をいれ、かれが擁立した持明院の光明天皇に神器を譲らせ、建武式目を定めて幕府を開いた。
尊氏と直義は建武二年(一三三五)の西上のとき、義詮を鎌倉にのこし、直義が信頼する細川和氏・斯波家長・石塔義房・上杉能顕に義詮を補佐させた。貞和(じょうわ)五年(一三四九)九月、尊氏は次男基氏を直義の養子として鎌倉に赴かせ、義詮と交代させた。基氏が初代の鎌倉府の主=関東公方となり、それから九〇年後の永享十一年(一四三九)に鎌倉府が滅亡するまで、基氏―氏満―満兼―持氏が関東公方を継承した。
鎌倉府は関東八ヵ国と甲斐・伊豆二ヵ国を管轄した(関東分国)。管領が公方を補佐し、評定衆・引付衆・侍所・政所・問注所という旧鎌倉幕府の諸機関を踏襲した。管領と守護の任命権および室町幕府直轄の所領(足利荘)の支配などを幕府ににぎられていたが、司法権・警察権・軍事権・土地処分権・課税免除・官途および偏名の授与・寺社監督権など大きな権限をもっていた(渡辺世祐前掲書)。
ところで鎌倉府の特徴を性格づけたのは直義であった。故渡辺世祐氏の『関東中心足利時代之研究』は、尊氏・直義兄弟が争った観応擾乱(じょうらん)(一三五〇~五二)が、尊氏の直義毒殺で終わったことを述べたあと、「直義は今斃(たお)るゝも、直義を慕ふの主は上にありて曽(かつ)て直義と進退を共にせし人々、即ち上杉氏の一族及び畠山国清等関東にありたれば、直義の勢力は依然として関東に存在せしなり。直義の勢力存在する間は、さきに直義と争ひ、終に死に至らしめし尊氏及び義詮とは、根本に於て相納れざるは明かなる事にして、関東公方が代々将軍と不和たるべき由来実に此に存せり。されば関東公方がこの後将軍と不和を生じて相争ふに至れるは当然あり得べき事にして、最初より決定せられし運命と云ふべし」と論断する。また佐藤進一氏は、尊氏と直義の対立は、尊氏の執事高師直と直義の対立から出たもので、師直には戦功によってとりたてられた武将派・御家人一族の庶流・足利一門でも家臣なみにあつかわれていた譜代・現状打破的な畿内周辺の非御家人系武士がつき、直義派は幕府内の官僚派・御家人一族の惣領・鎌倉幕府から足利氏嫡流に準ずるあつかいをうけていた足利一門・旧守的な奥羽・関東・九州などの辺境地方の武士からなり、利害対立する両者の抗争が観応擾乱をひきおこした、とされている(佐藤進一前掲書)。渡辺・佐藤氏の説は、鎌倉府体制下の関東の歴史を考えるうえに、大切な鍵を与えてくれる。鎌倉府が、鎌倉幕府的な秩序の存続を願う関東の御家人層に支持され、執権政治への回帰を理想とする直義によって始められたことが、その大きな権限にかかわらず、有力な御家人におびやかされ、強力な権力になれなかったという結果をもたらしたからである。