前編第四章で、十二世紀の品川区域の支配関係を検討したとき、江戸時代の荏原郡不入斗(いりやまず)村(現在の大田区大森北一~六丁目)は中世大井郷の一部であり、おそらく大井氏の所領であったろうと考えた。その推定のもとになる史料は次の文書である(資二八号)。
尾張国海東庄天竜寺管領地を除く、美濃国妻木郷内笠原半分曽木村細野、同国多芸内春木郷、武蔵国大井郷不入読村地頭職の事、兄民部少輔頼重の文和四年十一月六日譲状にまかせ、領掌相違あるべからざるの状くだんのごとし、
貞治五年八月三日 将軍源義詮判
土岐下野入道(頼高)殿
(土岐家譜)
これによると、土岐(とき)頼重が文和四年(一三五五)に弟頼高に尾張国海東庄(尾張国海東郡東部の荘園か、現名古屋市)・美濃国妻木郷曽木村細野(現岐阜県鶴里町細野)・多芸内春木郷(現岐阜県養老郡内か)と不入斗村の地頭職を譲り、貞治五年(一三六六)に将軍義詮が保証を与えていることになる。
土岐氏は清和源氏頼光流と伝え、頼光の子頼国の曽孫光信が美濃国土岐郡に住み、土岐氏を称した。鎌倉時代から美濃の名族として知られ、南北朝初期の土岐頼貞は尊氏に従って戦功をあげ、美濃国守護となった。頼重は頼貞の庶流の孫で、土岐郡明智郷を領し、明智氏を称した。天正十年(一五八二)本能寺の変で織田信長を殺した明智光秀の遠祖である(明智系図)。なお大井郷不入斗村を含む頼高の所領が、永徳三年(一三八三)に将軍義満に安堵された文書が『品川区史資料編』に収録されなかったので、ここに掲載しておきたい。
(足利義満)(花押)
下 土岐下野守法師法名浄皎(頼高)
可令早領知尾張国海東庄除天竜寺領、・美濃国妻岐郷内笠原半分曽木村・細野村・同国多芸庄内春木郷・多芸嶋郷・高田内河合郷・武気庄内野所安弘見・加藤郷・同国伊川郷伊川新兵衛尉跡、・武蔵国大井郷不入読頼重跡等地頭職事
右任観応元年(一三五〇)十月廿六日・同二年(一三五一)二月七日・同年九月廿日・延文元年(一三五六)十二月廿三日・貞治五年(一三六六)八月三日御下文安堵等之旨、可令領掌之状如件、
永徳三年七月廿五日
(土岐文書)
文和四年(一三五五)に頼高が兄頼重から譲与された所領のうち、妻木郷と多芸荘はすでに祖父頼重が尊氏から安堵の下文をうけ、「海東左近将監跡」は、観応二年(一三五一)に頼重が尊氏から「勲功の賞」として与えられた(明智系図)。のこりの不入斗村地頭職を頼重がいつ、どうして獲得したか明らかでない。しかしわたくしたちはすくなくとも文和四年(一三五五)以前に、もと大井氏の所領不斗入村が大井氏の手を離れ、大井郷と秋春系大井氏の所領六郷保大森・永富郷との間に、くさびを打ちこむような形で、足利一門に次いで幕府内に優勢であった土岐氏の一族、明智氏の所領になったことを知るのである。
暦応四年(一三四一)閏四月二十日、足利直義は下総国大慈恩寺(千葉県香取郡大栄町吉岡)を祈願所に指定した。翌五月二日、大慈恩寺に料所を寄進して塔婆の興隆を命じ、ついで六月十五日に仏舎利(釈迦の骨)二粒を塔婆に納めた(「大慈恩寺文書」・第九八図)。尊氏・直義兄弟が帰依した夢窓疎石の勧めで、元弘以来の争乱で死んだ敵味方の霊を弔うため、国ごとに一寺一塔(安国寺と利生塔)を建てた。直義が興隆をすすめた大慈恩寺の塔は、下総国の利生塔である。四年後の貞和元年(一三四五)三月十五日、直義は下総国利生塔にあてるべき三百貫の地を決めて報告するよう、鎌倉の足利義詮に指示した(「大慈恩寺文書」)。それからさらに四六年後の明徳二年(一三九一)十二月二十日、二代目の関東公方足利氏満が塔婆料所として、陸奥五郎跡六郷保大森郷(永富郷をふくむ)を寄進し、関東管領兼武蔵守護上杉道合(憲方)は氏満の意をうけて、武蔵守護代大石憲重に、大森郷の下地(したじ)(土地)を大慈恩寺の雑掌に渡すよう命令した(資三五・三六号)。
すでにわたしたちは、陸奥五郎が北条氏一門のだれかであり、陸奥五郎の大森・永富郷に対する領主権は郷司職であったろうと推定しておいた。そしてまた、この両郷が、秋春系大井氏の相伝の所領であることを再三述べてきた。そのような来歴をもつ大森・永富郷が、下総国利生塔料所という大慈恩寺領にくみこまれたのである。貞和元年(一三四五)に直義が義詮に注進させた三百貫の地を、そのまま大森・永富郷にあてはめるのは早計であるが、寄進は明徳二年(一三九一)以前であったかもしれない。いずれにせよ、両郷の寄進は鎌倉時代末まで、両郷地頭職を相伝の惣領職として保持しつづけてきた薩摩の秋春系大井氏は、鎌倉時代中後期に活動の舞台を薩摩に移しており、そのためか、建武元年(一三三四)に大井千代寿丸は、両郷を「悪党」に押領されかかった。しぜん薩摩大井氏の両郷に対する支配力は弱まっていたであろうが、鎌倉府が両郷を利生塔料所に寄進することによって、薩摩大井氏の地頭得分は、大幅に削られてしまったにちがいない。
しかしそれにもかかわらず、大井氏の残流は、十五世紀前半まで大森・永富郷に関係していた。応永二十四年(一四一七)七月二十六日、武蔵国守護上杉憲実は、六郷保定使(じょうし)所に命じて、金井式部丞が大慈恩寺領大森郷を押領することを禁じた(資四七号)。
下総国大慈恩寺雑掌行順申す当寺領武蔵国六郷保大森郷内祢宜後田四段・五段畠等の事、ここに大井中務四郎当郷代官給分としてこれを預け置くにより、舎弟五郎今に百姓分として耕作せしむるのところ、かの五郎跡を混乱し、金井式部入道違乱いたすとうんぬん、事実たらばはなはだしかるべからず、所詮証文明白の上は、くだんの〓(いろい)を止めらるるべきの旨、相触れるべきものなり、
応永廿四年七月廿六日 (上杉憲実)(花押影)
当保定使所
この文書は、大井中務四郎が大慈恩寺領大森郷の代官をつとめ、代官給田四段・畠五段をもっていたこと、その田畠を弟五郎にあずけ、五郎が耕作していたこと、五郎の死後金井式部丞が代官給田畠を押領したこと、武蔵守護であり、六郷保郷司である上杉憲実が金井の押領を停止していること、を述べている。
大森・永富両郷に対する押領ざたは、これ以前の応永十一年に(一四〇四)にもおきていた。この時の押領者は江戸氏の庶流江戸蒲田入道というものであった。関東公方足利満兼は、同年九月十五日の御教書で、かれの行為を「悪行のいたり、すこぶる重科をまねくか」ときめつけ、武蔵国守護上杉禅助(朝宗)に「狼藉人」の排除を命じ、禅助は守護代埴谷備前入道をその執行にあたらせた(資四二・四三・四四号)。応永二十四年(一四一七)の金井式部丞の押領事件は、江戸蒲田入道のそれと密接な関係があるにちがいない。この年は、関東を大混乱におとしこんだ禅秀の乱が年のはじめに終わったばかりであり、金井は禅秀の乱の最中に関東管領上杉憲実のひざもとで、大森郷代官給田畠の押領をくわだてたのである。
江戸蒲田入道は、熊野御師廊之坊の旦那江戸氏一族を列記した応永二十七年(一四二〇)の「武蔵国江戸苗字書立」(「米良文書」)に「このほかそし(庶子)おゝく御入候」と別記されている「かまたとのいつせき(蒲田殿一跡)」にあたるだろう(杉山博「大森周辺の武士と農民」)。この文書には品川区周辺在住の江戸氏一族に、蒲田氏のほか、六郷殿・丸子殿・桜田殿・金杉殿・鵜ノ木殿・原殿一跡が記録されている。
大井氏に関する史料はここで切れてしまう。史料がなくなるだけでなく、大井氏そのものが、品川区域周辺から姿を消してしまうのである。関東の争乱を平定し、武蔵の武士たちを統一した後北条氏の家臣のなかに大井氏の子孫を見出せない。十二世紀の中葉に大井実直が大井郷に居をすえてから二五〇年間、品川・大田区域を支配しつづけた大井氏は、室町幕府や鎌倉府の上からの圧力と、惣領制のわくから抜け出し、自立しようとする中小武士の、鎌倉府体制への反抗の犠牲になって没落したのである。鎌倉幕府御家人大森・永富郷地頭から大慈恩寺領大森郷代官へ、この変化が大井氏の没落を象徴するように思える。
「円覚寺文書」所収康暦二年(一三八〇)八月二十五日「関東公方足利氏満御教書」(資三一号)、同年九月八日「宗兵庫助打渡状」(資三二号)、同年九月九日「宗兵庫助代妙源打渡状」(資三三号)により、金陸寺に寄進された武蔵国都築郡石河郷(現神奈川県横浜市港北区元石川町)は、「大井三郎跡」であった。大井三郎が大井氏一族であるかどうか不明であり、後の検討を期したい。