品川氏がその本拠地である品川区域で行なった所領支配の様子や政治的動向は、鎌倉時代の中期以後から南北朝時代を通じてまったくわからなくなる。前章でややくわしく追ったように、品川氏一族が地頭職を獲得した近江・紀伊・和泉・安芸での活動は、ある程度明らかにできたが、かんじんの本拠地で、品川氏がこの時代をどのようにすごしたかはっきりしない。『吾妻鏡』は正嘉二年(一二五八)三月一日に、将軍宗尊親王の箱根権現と伊豆山権現参詣の供奉随兵中に、品川右馬允為清を記録しており、文書はそれより早く貞応二年(一二二三)に、品川清経が父清実から譲られた南品川郷桐井村を、幕府が安堵(資五号)したことを示してから絶えてしまう。それ以後の史料はまったく空白である。ところがまことに突然、応永三十一年(一四二四)になって、品川氏が現存の文書三通のうえに現われるのである。それも品川氏の没落をわたくしたちに教える悲劇的な様相をともないながら。
応永三十一年(一四二四)六月十七日に、四代関東公方足利持氏は、母の一色氏の侍女にあて、品川太郎の堀の内(館と周辺の所領)を除く所領を没収し、母の料所とするから知行するようにという内容の書状を出した(資四九号)。持氏母の侍女たちが所領を直接支配できるはずはなく、公方直轄地を管理する鎌倉府の部局がそれにあたるのであろうから、要するに品川氏の所領は公方持氏に没収されたのである。品川太郎の実名は不明である。しかし通称の太郎は、鎌倉時代以来、連綿と品川に住み、品川を支配しつづけた品川氏の惣領家であることを想像させる。同じ日、管領兼武蔵守上杉憲実は守護代大石信重にあて、持氏母の代官が品川太郎没収地の下地(したじ)(現実の土地)を支配できる措置をとるように指示した。ところが所領の引渡しは順調にいかなかった。次の文書をみよう(資五〇号第一〇〇図)。
大御所御代官申す御料所武蔵国品河太郎跡堀内分を除くの事、注進状その沙汰おわんぬ、ここに品河太郎多勢を率(ひき)い固め支(ささ)え申すとうんぬん、はなはだ重科を招くか、所詮重ねてかの所に莅(のぞ)み、下地を大御所御代官に沙汰しつけらるるべし、すでにかの跡においては、一円に収公せらるべきといえども、寛宥の儀をもって堀内分を残さるのところ、あまつさえ御代官に対し、雅(が)意にまかせ支え申すの条、罪科のがれがたし、なおもって異儀におよばば、与力(よりき)人といい交名(きようみよう)人といい、起請文の詞(ことば)をのせ、不日(ふじつ)に実否を注進すべきの状、仰せにより執達くだんのごとし、
応永卅一年七月五日 藤原(上杉憲実)(花押)
大石遠江入道(信重)殿
品川太郎は、没収所領から堀の内を除外する「寛宥の儀」をありがたく思わず、多数の軍勢をひきい持氏母の代官が現地に入って必要な手続をとるのを妨害した。もし今後も抵抗を続けるならば、品川太郎に協力するものの名簿をつくり、大石信重の起請文をつけて実情を報告せよ、というのである。その結果がどうなったかわからない。なお抵抗しつづけて堀の内まで没収されてしまったか、あきらめて引きさがったかのどちらかである。さて、この一連の事件から、わたくしたちはどのような歴史の流れをくみとらなければならないだろうか。前述のように、この事件の前後の品川氏の動向を明らかにする史料が皆無であるから、大変むずかしい問題であるが、鎌倉府体制下における在地武士層の一般的な動向のうちにおいて考えてみたい。
品川太郎の所領没収は単独におこなわれたのではなかった。同年六月二日に武蔵国青砥(あおと)四郎左衛門入道の所領も、堀の内を除き持氏母の料所とされ、上杉憲実が大石信重に執行を命じている(「上杉家文書」)。持氏の寄進状と上杉憲実の施行状は、品川太郎に対するそれとまったく同文である。このことは、持氏母の料所をふやすために、たまたま品川太郎の所領が没収されたのではなく、もっと深い政治的な意味があったことを暗示する。品川氏と青砥氏の所領没収の直接のきっかけは不明であるが、禅秀の乱が上杉禅秀(氏憲)一党の滅亡で終わりをつげた応永二十四年(一四一七)の閏五月と十月に、上総国の在地武士の所領が没収され、持氏母の料所にくみこまれる、ということがあった。すなわち同年閏五月二十四日、持氏は上総国千町庄大上郷二階堂右京亮跡を母の料所とし、同日上総権介にそれを執行させ、十月二十七日には、上総国天羽郡萩生作海郷皆吉伯耆守(みなよしほうきのかみ)跡を母の料所に寄進し、同日管領上杉憲基が、大坪孫三郎と佐々木隠岐守を現地に出張させ、下地を預人(現地の代官)に渡すように命じている(「上杉家文書」)。
上杉氏は鎌倉時代末期に、頼重の娘清子が足利貞時の妻になり、尊氏と直義を生んだので、足利氏につらなる特別の地位を占めた。頼重の子憲房が元弘・建武の動乱に活躍し、その子憲顕は直義に深く信頼され、初代関東公方基氏のもとで管領になった。系図のように上杉氏は四家に分かれたが扇谷家は勢力なく、詫間家と犬懸家本宗には山内家から養子に入っているので、一族の結束がゆるんでくると山内家と犬懸家が対立するようになった。応永二十三年(一四一六)、ささいなことをきっかけに上杉(犬懸)禅秀が公方持氏に抗議して管領職を辞職した。持氏は上杉(山内)憲基を管領に任じた。当時将軍義持の庶弟義嗣が将軍職を狙っており、持氏の叔父満隆も不満をいだいていた。禅秀はこれらの不平分子と結び、千葉兼胤・岩松満純・那須資之・武田信満・大掾満幹らの姻戚、足利満貞・山入与義・小田持家ら持氏に不平をもつもの、および武蔵・上総の武士を動員して鎌倉に挙兵し、持氏と管領憲基を鎌倉から追い払った。幕府は駿河守護今川範政・越後守護上杉房方に持氏援助を命じた。翌二十四年(一四一七)正月、禅秀方は持氏方に寝返った武州南一揆・江戸・豊島らを世田谷原に破ったが、今川勢の圧力が強まったので鎌倉に帰った。正月十日憲基の兵に攻撃され、禅秀は一族とともに自殺した。この争乱を禅秀の乱という。禅秀の乱の経過は、『鎌倉大草紙』という記録にくわしいが乱中の品川氏の動向ははっきりしない。『新編武蔵風土記稿』は、南品川宿品川寺の項で「応永年中上杉禅秀の乱の時、品川一族皆討死す」と書いているが、確証ない。また『改訂史籍集覧』所収の『鎌倉大草紙』は、禅秀の挙兵のとき持氏にしたがった軍勢のうちに「品川左京亮、同下総守」と記録するが、『群書類従合戦部』所収の同書では「早川左京亮・同下総守」とあるので、品川氏の去就をかんたんにきめられない。したがって以下の文章では、さしあたりそのことは保留し、応永三十一年(一四二四)の品川氏所領の没収事件に問題をしぼって考えてみたい。
二階堂右京亮と皆吉伯耆守は禅秀の乱にくみした罪科で所領を没収されたのであろう。犬懸上杉氏は朝房・朝宗・禅秀と上総国守護職を継承し、上総の在地武士の組織化をすすめていた。『鎌倉大草紙』には、禅秀が挙兵したとき鎌倉で禅秀方に加わったものに「木戸内匠助伯父甥・二階堂・佐々木一類」をあげ、十月六日の鎌倉仮粧(けはい)坂合戦の禅秀勢に二階堂信濃守・同山城守がいる。上総の二階堂右京亮もこれらの二階堂氏と同族で、乱後に所領を没収されたのである。皆吉伯耆守の場合も同様であったろう。こうしてみると、品川氏と青砥氏の所領没収は、乱後だいぶ年数がたち、没収の直接のきっかけもわからないにしても、禅秀与党の罪を責められた結果と推定して、ほぼ間違いない。
南北朝時代、鎌倉幕府御家人の系譜をひく武蔵の中小在地武士は、一揆という同族連合を組織して動乱を生き抜こうとした。平一揆は河越・高坂・江戸・豊島氏など南武蔵の秩父氏流平氏の同族連合であり、白旗一揆は別符(べっぷ)・久下(くげ)・高麗(こま)氏ら北武蔵の国人一揆である。これらの一揆が鎌倉府の大豪族武士に対する戦闘部隊として動員されてくる。貞治元年(一三六二)の初代公方基氏による執事畠山国清の討伐に白旗一揆・上州藤家一揆、貞治三年(一三六四)の基氏と管領上杉憲顕の宇都宮氏綱討伐に白旗一揆・常陸平一揆、康暦二年(一三八〇)の小山義政攻撃に上野と武蔵の白旗一揆、嘉慶元年(一三八七)の小田孝朝攻撃に北白旗一揆が鎌倉府と上杉氏の軍勢に動員された。
上杉氏は、鎌倉府が統制に苦心した関東の大豪族武士のような伝統的な基盤を関東にもっていなかったので、豪族の家父長制的・惣領制の統制から自立しつつある庶流の中小武士を積極的に掌握しようとした。とくに畠山重忠の滅亡に象徴される秩父氏系豪族の衰退は、武蔵の中小在地武士を早くから惣領制のわくから解放していた。そしてかれらを掌握した北条氏もすでに滅亡している。武蔵の平一揆や白旗一揆の活動がとくにいちじるしいのには、そのような背景があった。
上杉氏が武蔵の在地武士を掌握してゆくてこは守護職であった。貞治年間(一三六三~六八)以後、武蔵国守護職は山内上杉氏に与えられ、能憲・憲春・憲方は、武蔵の武士を守護の使節として国内の各地に派遣し、公方の命令を遵行させ、戦いに動員した。この過程で武蔵の在地武士は山内上杉氏に結ばれていった(杉山博「守護領国制の展開」『岩波講座日本歴史』7所収)。しかし応永二年(一三九五)以後、犬懸上杉氏の手に守護職がうつり、以後二十余年間犬懸上杉氏の武蔵支配がつづく。禅秀の乱の初期、江戸・豊島・二階堂下野守および南一揆(多摩郡南部在地武士の非血縁的・地域的連合組織)らの武蔵武士が禅秀に味方した。このことは犬懸上杉氏による組織化の進行を物語っている。ところが禅秀の敗北のきっかけは、江戸・豊島・南一揆の裏切りであったらしい。江戸・豊島氏は鎌倉攻撃の先鋒であったし、戦功の筆頭にあげられた(『鎌倉大草紙』)。犬懸上杉氏と武蔵武士・国人一揆との関係は、主君と家臣というような固い結びつきではなかったのである。
禅秀の乱は、禅秀と持氏・憲基の対立にはじまったが、両者の対立に直接には無関係の広汎な中小武士をまきこみ、そしてかれらの力で解決された。乱後、惣領制の解体はいっそう進行し、停滞的な関東の社会に次の時代の光がさしはじめる。中小武士や国人一揆をどのように組織して領国をつくってゆくか、いいかえれば鎌倉府体制をいかに乗りこえるかということが、この時代の領主階級につきつけられた歴史的課題になってくる。品川氏が武蔵守護の両上杉氏とどのように関係し、禅秀の乱の渦中にあってどう行動したか明らかでない。しかしまったく無関係であったとは思われない。応永二十七年(一四二〇)の「武蔵国江戸苗字書立」(「米良文書」)が教えるように、品川氏の周辺にひろく江戸氏の庶流が分布し、かれらこそ禅秀の乱の主導権をにぎった江戸氏の軍勢であったろうから。品川太郎は江戸・豊島氏らと一緒に行動(禅秀方から持氏方へのねがえり)したのではないか。それが乱後七年も後に禅秀与党の罪で所領没収のうきめにあったもう一つの理由には、後述のように品川湊の支配をめぐる、山内上杉氏と品川氏の対立があったのであろう。
応永三十一年(一四二四)を最後にして品川氏は品川から姿を消してしまう。大井氏がみえなくなる応永二十四年(一四一七)とほぼ同じ時にである。そして大井氏も品川氏もその本拠地に子孫を残さなかった。こうして十二世紀後半以後、国衙につらなる郷司として、また由緒正しい鎌倉幕府の御家人として、二百数十年にわたり品川・大田区域を支配しつづけた一族は没落した。しかし次の時代の品川を担う新らしい階層が、すでにこの時代に現われていた。品川湊を活動の舞台とする人々である。
永享六年(一四三四)五月十二日南品川妙国寺に芝原を寄進し、竹木を植えさせた某(資五一号)を、『新編武蔵風土記稿』は「当所の人品川八郎三郎国友」とするが、国友の実在と品川姓を称したことを実証する史料はない。