鈴木道胤

337 ~ 345

後北条氏の遺臣三浦浄心が、小田原後北条氏五代にわたる関東の歴史や逸話を書きとめた『見聞集』に、次のような話しがある。

今品川に五重たう(塔)有、里の翁(おきな)語けるは、昔鈴木道印と云うとく(有徳)なる町人立(たてる)なり、幸順と云息(そく)あり、父子連歌数寄(すき)なり、其比都に権大僧都心敬と云連歌師あり、道印父子と知音なり、(中略)心敬と道印父子他(こと)に異なる知音故、品川にては毎年心敬の下向を待かね、京にて心敬は秋来るをおそしと待ていそき品川へ下り、明くれ連歌せられたりと語る、我(浄心)聞て道印父子七堂からんを建立し、福徳のしるし見えたり、

浄心は続けて道印父子は連歌が好きだったが下手(へた)だったのだろう。なぜなら道印も幸純も名前のついた発句一つ残っていないではないか、また心敬にしても、京に有名な連歌師がいくらもいるのに、東のはずれ品川の鈴木などをなつかしみ、海山をこえてはるばる下ってくる気がしれない、と皮肉っている。道胤が生存した十五世紀なかばから、一五〇年もたった慶長ごろまで、品川の有徳(うとく)人(富裕者)の話しが脚色され、尾ひれがついて語りつがれているのである。

 浄心が品川の翁から聞いた話しの七堂伽藍は、現在の南品川二丁目にある妙国寺のことである。妙国の縁起(「武蔵国荏原郡南品川鳳凰山妙国寺縁起」第一〇六図)によると、「日蓮の門弟中老十八人の一人天目により、弘安年中(一二七八―八七)に創建され、その後日叡のとき京都妙満寺の末寺になったのを機会に七堂造営の誓いをたてた、施主は熊野鈴木氏後胤の沙弥道印と、日胤・光純・日孝・日助等であった。造営は文安二年(一四四五)に終わった」とある。『新編武蔵風土記稿』は、どのような史料によったか、「文安元年(一四四四)に至て領主紀州熊野人の後胤沙弥道胤及鈴木光純と云もの大檀那となり、七堂伽藍を剏立(そうりゆう)せん事を企、十七年を歴て長禄三年(一四五九)に落成す、故に日叡を中興開山と称す、此僧は文明八年(一四七六)四月十四日寂す」とし、妙国寺に関する諸書はみなこれにならっている。「縁起」と『風土記稿』とどちらが事実かいま明らかにできない。


第106図 妙国寺縁起

 ところで妙国寺と鈴木道胤の関係を示すもっとも根本的な史料は、妙国寺が旧蔵した寛永十八年(一六四一)の梵鐘の銘文である。銘文をみよう。

往代鐘銘曰

倩以

聖衆之影向 宛如華散嵐

結縁之得脱 亦似日傾西

一聴鐘声 召請三宝

六道衆生 発菩提心

鋳一口之鐘 新三身之果

善根広無限 功徳遍有幾

大日本国武州荏原郡

品河郷妙国寺住持

  法印 日叡

文安三年丙寅季冬中旬第三天

 大檀那沙弥道胤

  鋳師和泉権守貞吉

南無妙法蓮華経

毎自作是念 以何令衆生

得入無上道 速成就仏身

於我滅度後 応受持斯経

是人於仏道 決定無有疑

鳳凰山妙国寺

 寛永十八年辛巳八月下旬

  洛陽妙満寺三十三祖日延再興之

  当山十三代目

  施主 当寺一結諸檀那

  江戸住冶工

   長谷川豊前守藤原重次

鐘銘は二つの部分に分けられる。文安三年(一四四六)の「往代鐘銘」と寛永十八年の銘とである。要するにこの梵鐘が寛永十八年に新鋳されたとき、それまで使っていた鐘の銘文もいっしょに彫っておいたのである。そして「往代鐘銘」から鈴木道胤が文安三年に梵鐘を施入したことは明らかだ。

 鋳師和泉守貞吉は、旧千葉県君津郡飯富宮の享徳年間(一四五二~四)の梵鐘の銘文(現千葉県銚子市馬場町円満寺所蔵)にみえる「河内権守光吉・貞吉」の貞吉と同一鋳師であろう(品川区教育委員会編『中世の品川』)。妙国寺梵鐘の文安三年銘文が後代の仮託でないことが証明される。

 道胤が寄進した「七堂伽藍」の一々の堂舎はわからないが、『見聞集』がいうように五重塔があった。文明十七年(一四八五)、江戸城主太田道灌に招かれ、美濃国からはるばる東海道を下り、同年の十二月二日に品川へ到着した万里集九は、まのあたりに妙国寺の五重塔をみて

双塔五層兼一層、問宗旨答法華僧、蓮紅二十八差別、子細看来満口氷   (『梅花無尽蔵』)

と称賛している。この五重塔は慶長十九年(一六一四)八月二十八日の大風で倒れた。三浦浄心が「此塔百六十九年をさかんにして、滅する時節にあへりといへは、品川の人云けるは、此塔品川の名物、所のかさりなるを、悪風そん(損)さすもの哉(かな)と風を恨む」と答えたという(『見聞集』)。品川の人々の愛着がよくわかる。妙国寺の塔は品川のシンボルであったろう。湊に入る船も、街道を急ぐ旅人も、品川をとりまく村々の農民も、この塔の下に品川の町並みがあることを知っていたのだから。


第107図 妙国寺絵図(『新編武蔵風土記稿』)

 妙国寺の五重塔を建て、梵鐘(ぼんしょう)を寄進し、後の時代までその有徳(うとく)ぶりを伝えられた鈴木道胤とは、どのような人であったろうか。「妙国寺文書」の宝徳二年(一四五〇)十一月十四日「関東公方足利成氏御教書」(資五八号第一〇八図)によると、「品河住人道胤」の蔵役(くらやく)が成氏から免除され、文明八年(一四七六)六月二十日、「本光寺住持日鏡」は鈴木入道の馬場と本光寺の寺地(東は鈴木入道の地所、西は法蔵寺、南は善仲寺、北は妙行寺にかこまれた地所)とを交換した(資六三号)。後者の鈴木入道を道胤と同一人物としても、道胤に関する文書は二通しか現存しない。しかし宝徳二年(一四五〇)の蔵役免除の文書は非常に重要な史料であって、その十分な検討は道胤の社会的な性格を考えるうえにかかせない。一般に蔵役は、室町幕府が京都の質屋である土倉(どそう)に課した土倉役(税金)のことをいうが、道胤が成氏から免除された蔵役も、これに類するものであったろう。そうだとすれば、道胤は高利貸金融業者ということになる。しかしわたくしたちは、品川湊には、ほぼ六〇年前の明徳三年(一三九二)に三軒の問(とい)があったことを知っているのであるから、道胤の問兼業(あるいは本業であったかもしれない)を想像することは十分に可能である。妙国寺の縁起に、道胤を紀伊熊野の鈴木氏の子孫としていること、連歌師心敬が「あづまのかたにあいしれるゆかり」の人(道胤であろう)をたずね、文明二年(一四七〇)ごろ伊勢から船便で品川についていること、長享二年(一四八八)の品川沖における紀伊の廻船の遭難、後述する伊勢御師久保倉の「阪東導者日記」に、品川の旦那が圧倒的な多数を占めていることなどは、品川湊と伊勢・紀伊など西国諸国とのなみなみならぬ関係を考えさせる。道胤は西国の廻船業者によく知られた問であったのではなかろうか。おそらく道胤は、問の経営で蓄積した財をもとに質屋の経営にものりだし、巨額な財産をつくりあげたのであろう。残念ながら、かれの問と蔵の営業の実態を明らかにできないが、品川湊の発展が道胤のような商人を生みだしたことはたしかである。ちなみに品川の北馬場(ばんば)・南馬場の地名は、道胤の馬場に由来するという。


第108図 足利成氏御教書(妙国寺文書)


第109図 京浜急行南馬場駅

 心敬は京都清水十住心院の僧都で著名な連歌師であった。文明二年(一四七〇)ごろ、鈴木道胤をたよって武蔵に下り、品川に仮寓した。応仁の乱の混乱がもたらした文化人の地方逃避の一例である。かれは、太田道灌が主宰した文明二年(一四七〇)の「川越千句」の歌合せ、文明六年(一四七四)の「江戸歌合」に、著名な連歌師宗祗(そうぎ)ととも参会した。また『太田家記』によると、ある年、道灌は品川の館で千句連歌の会を催した。発句は心敬の「九つの品川しるき蓮(はすね)かな」(「見聞集」には「九つの品かわりたる蓮かな」)であったという。品川を極楽浄土の九品(くほん)の蓮のうてなにかけて、熱心な法華(ほっけ)信者である道胤をたたえたのである。前島康彦氏は、太田道灌が品川の館で千句の連歌を興行したという『太田家記』の記述は誤りで、鈴木道胤宅で催された会に、道灌が招かれたと解すべきであるとされている(『太田道灌』)。なお同氏は、文明二年(一四七〇)の「川越千句」に出席した鈴木長敏を道胤の子光純に、文明六年(一四七四)の「江戸歌合」に出席した長治という人物を道胤その人と推定される。道灌・心敬・道胤とつらなる品川のサロン的気分がわかるようだ。心敬の東国流離の事情は、その著「老のくりこと」に「あづまのかたにあひしれるゆかり、此頃いたづらにこもりゐ侍らんよりも、あはれ富士のね、鎌倉の里をも見侍れかしなど、あながちの事に侍れば、太神宮参籠などの心ざし侍るおりふしにて、あからさまの日数をさだめ、伊勢の海士の扁舟のたよりをたのみ、そこはかとなき蒼海漫々の風波にたゞよひ、天水茫々の烟霞にむせびて、ならはぬいその藻しほの枕、思はぬ島の篷の莚にしもほれて、うきねの夢をかさねし程に、なく/\武蔵の品川といへる津にいたり侍り、名どころとも見侍て、やがて帰路の事など思立しに、世のなかのみだれいよ/\の事にて、今は筑紫のはて、吾妻のおくまでもさはがしくなり侍れば、ひたすら便をうしなひ、たのまぬ磯の藻塩の草の庵をむすび、みなれぬあまに浪の枕をかはす仮ねの夢の中に、五とせまでたゞよひ侍るに、あまさへ吾妻のみだれしきりに成て、たがひに弓矢なぐゐのみのかまびすし(さ)、さながら刀山剣樹のもとゝなり、旅のうれへます/\みをきるごとくなれば、今はいかなる岩のはざま、苔の莚にも、しばし心をのべばやと尋入侍る程に、相模のおく大山の麓に星霜年久しき苔の室あり、(後略)」と書き、また「ひとりごと」で「かりそめに参宮など申侍て、心をのべ侍るに、東の方にあひ知れる長敏といへる人便船を送りて、ねんごろに富士などこのついでにと侍れば、波にひかれてたゞよい侍り、やがて契て出しかども、都のみだれいよ/\浅ましく成行侍て、海路山路の便をも失ひ侍れば、はからざるに武蔵野の草葉を結びて」といっていることで明らからある。そして心敬筆と伝える古今集(大島雅太郎氏所蔵)の奥書に「応仁初暦中秋上旬、於品川草庵注之、釈心敬」とあることで、心敬の品川仮寓もまたたしかである(荒木良雄『心敬』)。心敬の著書によっても、鈴木氏が伊勢と武蔵とを結ぶ海運業者であったらしいこと、道胤が心敬のパトロンであったことを知るのである。

 

 道胤と同じころ、品川に有力な一族が現われる。近世の初頭に品川明神神主家と北品川宿名主家に分かれた小泉氏の先祖宇田川氏である。「宇田川氏系図」によると、江戸日比谷に代々住んでいた宇田川和泉守長清というものが、長禄元年(一四五七)の太田道濯による江戸城築城にさいして、北品川に移されたという。その子隼人正(はやとのしょう)清勝は、文正元年(一四六六)に上杉(山内)顕定の軍にしたがい、武蔵五十子(いそこ)合戦で討死したと伝える。「系図」によるかぎり、宇田川氏は山内上杉氏の家臣のようにみえる。後掲の永正十五年(一五一八)久保倉藤三の「阪東導者日記」には、品川の宇田川姓六名を数え、一族の品川在住は確実になるが、宇田川氏の姿がはっきりしてくるのは、品川が後北条氏の支配下に入ってからである。