旧品川地域には寺院が非常に多い。品川の町なみを縦貫する旧東海道を歩くと、街路の西側にいくつかの寺院の門があいているのに気づくし、旧東海道に並行してはしる京浜急行電鉄の車窓からも、多くの寺の境内がみえる。品川は東京でも有数の寺院集中地域なのである。これらの寺院はいつごろ創建されたのであろうか。
第15表で『新編武蔵風土記稿』が記録する寺院の創立年代を年代順に配列してみた。同書の編者は、江戸時代の文化・文政期に南北品川宿にあった二五ヵ寺の調査をおこない、縁起・寺伝・古文書・遺物などを詳細に書きあげた。わたくしたちが品川区域の歴史を知るうえに大きなおかげを蒙っている。しかし『新編武蔵風土記稿』の記述を無条件に信ずるわけにはいかない。とくに寺院の創立年次については、同書は寺伝をほとんどそのまま書いているので、相当の批判的な読み方が必要である。第15表をそのような目でみると、いろいろなことがうかんでくるが、ここでは焦点をしぼって考えてみよう。
寺名 | 宗派 | 創立年次 | 開基 | 開山 | 所在地 |
---|---|---|---|---|---|
常行寺 | 天台宗 | 伝嘉祥元年(八四八)、大永六年(一五二六)再興 | 中興実海 | 南品川二丁目 | |
海晏寺 | 臨済宗→曹洞宗 | 伝建長三年(一二五一)、文禄二年(一五九三)再興 | 伝北条時頼 | 伝蘭渓道隆、中興慶存 | 南品川五 |
妙国寺 | 日蓮宗 | 弘安八年(一二八五)、長禄三年(一四五九)再興 | 中興鈴木道胤・光純 | 天目、中興日叡 | 南品川二 |
蓮長寺 | 日蓮宗 | 弘安年中(一二七八~八七) | 日法 | 伝日蓮 | 南品川一 |
善福寺 | 時宗 | 永仁二年(一二九四) | 伝他阿真教 | 北品川一 | |
海蔵寺 | 時宗 | 永仁六年(一二九八) | 伝他阿真教 | 南品川四 | |
正徳寺 | 真宗 | 永仁六年(一二九八) | 春応 | 妙環枢翁 | 北品川二 |
養願寺 | 天台宗 | 正安元年(一二九九)、寛文年中再興(一六六一―七二) | 中興什慶 | 北品川二 | |
清徳寺 | 臨済宗 | 元徳二年(一三三〇) | 真照 | 妙環枢翁 | 北品川三 |
光厳院 | 臨済宗 | 文和二年(一三五三) | 伝二階堂出羽入道道薀(貞藤) | 雲海、ただし永禄一二年(一五六九)没とあり | 北品川二 |
本光寺 | 日蓮宗 | 永徳二年(一三八二) | 日什 | 南品川四 | |
法禅寺 | 浄土宗 | 明徳元年(一三九〇) | 言誉説阿定実 | 北品川二 | |
願行寺 | 浄土宗 | 未詳、寛正三年(一四六二)再興 | 観誉祐崇 | 南品川二 | |
長徳寺 | 時宗 | 寛正四年(一四六三) | 徳川有親 | 覚阿 | 南品川二 |
本栄寺 | 日蓮宗 | 宝徳二年(一四五〇) | 日栄 | 南品川一 | |
大竜寺 | 時宗→黄檗宗 | 寛正四年(一四六三) | 中興藤堂良直 | 覚阿 | 南品川四 |
妙蓮寺 | 日蓮宗 | 長享元年(一四八七) | 日遵 | 南品川一 | |
海徳寺 | 日蓮宗 | 大永二年(一五二二) | 鳥海和泉守 | 日増 | 南品川一 |
本照寺 | 真宗→日蓮宗 | 未詳、天文一七年(一五四八)改宗 | 日純 | 北品川二 | |
本覚寺 | 天台宗 | 元亀三年(一五七二) | 晃慶 | 南品川一 | |
天竜寺 | 曹洞宗 | 天正九(一五八一)? | 徳川忠昌母清凉院 | 南品川四 | |
東海寺 | 臨済宗 | 寛永一五年(一六三八) | 徳川家光 | 沢庵宗彭 | 北品川三 |
心海寺 | 浄土宗 | 正保四年(一六四七) | 本田九八郎 | 峯山 | 南品川二 |
品川寺 | 新義真言宗 | 不詳、承応元年(一六五二)再興 | 南品川三 | ||
海雲寺 | 曹洞宗 | 元禄二年(一六八九) | 不山東用 | 分外祖耕 | 南品川三 |
第15表にあげた二五ヵ寺から、江戸時代に創建された五ヵ寺をひいた二〇ヵ寺のうち、現存の古文書で寺が確実にあった上限をたしかめられる寺院は、十一ヵ寺まである。すなわち、①妙国寺は永享六年(一四三四)の「某寺領進寄状」(資五一号)で、②本光寺は寛正六年(一四六五)の「沙弥道扶寺領寄進状」(資六二号)で、③妙蓮寺は享禄三年(一五三〇)の「某禁制写」(資七三号)で、④清徳寺が天文九年(一五四〇)の「遠山綱景禁制写」(資七七号)で、⑤願行寺が天文十八年(一五四九)以後の「吉良頼康書状」(資九〇号)によって、寺が存在した上限が確実にたしかめられる。それにくわえて、文明八年(一四七六)の「本光寺住持日鏡寺地相博状」(資六三号)によって法蔵寺・善仲寺・妙行寺の存在が知られ、天文十八年(一五四九)の「吉良頼康判物」(資八九号)によって大吉寺があったことがわかる。さらに、天正六年(一五七八)二月、北条氏繁が藤沢遊行寺から欠け落ちした時衆僧尼の立ち寄りを禁じた「品河三ヵ所道場」(資一〇一号)が善福寺・海蔵寺・長徳寺・東光寺の時宗寺院四ヵ寺うちの三ヵ寺にあたるとすると、寺があった上限が確認できる寺院は一一ヵ寺である。ほかに海晏寺は、宝徳三年(一四五一)の鐘銘(『新編武蔵風土記稿』)から十五世紀における存在が推定される。もちろんここで確定できた上限は、その時にその寺が創立されたことを意味しないから、それ以前に寺院の存在を当然考えなければならない。しかし品川の寺院の多くは室町時代に建てられたようである。古い時代に創立が伝えられる寺院も、いつか廃絶・衰退し、室町・戦国時代に再興されている寺がいくつかあるのも、推定を裏づける例証である。品川が湊町としての機能をそなえ、小規模ながら港湾都市的な形態をととのえた室町時代こそ、問に代表される商人たちを、開基や外護者とする寺院が建てられるのに、もっともふさはしい時代である。
室町時代の品川の寺院を代表するのは、前述のように鈴木道胤が大檀那となった妙国寺である。「妙国寺文書」によると、文安の造営に先立って、永享六年(一四三四)五月三日の某(寺伝では品川八郎六郎)による「南品河之端芝原之地」の寄進(資五一号)、永享八年(一四三六)四月十九日の前上総介定景による「南品河郷内畠大(二四〇坪)」の寄進(資五二号)、同年七月十二日の沙弥正三(寺伝では二階堂氏とするが確証はない)による「南品河洲宮之神田堺付妙国寺西北副弐段」の寄進(資五三号)、永享十年(一四三八)七月十八日の姓未詳憲泰(寺伝では上杉憲泰とするが、上杉氏に憲泰と称するものなし)による「南品河妙国寺地(勢阿弥作畠一段をふくみ、常金作畠一段を加える)」の寄進(資五五号)、永享十一年(一四三九)十一月六日の憲泰による「南品河熊野堂南石畠一段、作人左近太郎」の寄進(資五六号)があった。この人々の素性を明らかにすることができれば、鈴木道胤を外護者とした妙国寺造営の意味がもっとはっきりするだろう。
現南品川一丁目にある海徳寺も注意すべき寺である。『新編武蔵風土記稿』は、同寺について、
自覚山松陽院と号す、寺伝云、此地昔は鳥海和泉守と云人の屋舗なり、大永二年(一五二二)宅を捨て寺とす、和泉守が法名を自覚院松岸日性と号す、卒年は伝へず、開山松陽院日増天文十四年(一五四五)三月九日寂す、山号院号共に開山開基の法号を兼用す、和泉守子孫は今の名主吉左衛門なり
と、江戸時代の南品川宿名主利田氏の先祖鳥海和泉守による菩提寺の建立を伝えている。後述の永正十五年(一五一八)久保倉藤三「阪東導者日記」に品川の鳥海姓を称するもの六名が記帳され、天正十一年(一五八三)の「北条氏照朱印状」(資一〇二号)には、鳥海氏が宇田川氏とならび南北品川の町役人として登場する。このような鳥海氏を海徳寺の開基と伝えていることも、品川の寺院の性格をよく物語っている。いまは詳しい寺伝を失った諸寺の多くも、妙国寺や海徳寺と同じような性格の寺院であったのではあるまいか。
中世の人々の信仰生活を特徴づけるものに、熊野信仰と伊勢信仰があった。紀伊半島の山岳地帯が太平洋につき出た熊野地方は、平安時代から密教の修行道場となり、やがて平安時代中・末期に浄土信仰がたかまると西方浄土になぞらえて、本宮・新宮・那智の熊野三社が皇室や貴族にあつく信仰され、いわゆる熊野詣がさかんになった。中世になると武士や庶民にまでひろまり、参詣者に宿坊を世話し、おはらいや祈祷をあっせんする御師(おし)が生まれた。御師は特定の一族や地域の人々と旦那契約を結び、それが一種の株(権利)になって、旦那株を相続・譲渡・売買するようになった。現在、熊野那智大社に旧御師実報院(米良(めら)家)伝来の旦那売券を中心とする多数の文書が所蔵されている。
それによると、武蔵国では貞治元年(一三六二)に那智御師村松盛甚の旦那に、多東郡中野郷大宮(杉並区大宮八幡)の住僧四名、豊島郡江戸郷山王宮(港区赤坂日枝神社)の住僧三名がみえるのをはじめとして、応永二年(一三九五)に本宮御師いくま九郎左衛門盛宗が、御師廊之坊に売却した武蔵国江戸一円・同太田名字の一族や、応永二十七年(一四二〇)の廊之坊の旦那江戸氏一族があった。前節で述べたように、江戸氏一族は、このころ荏原郡南部に広く分布するから、南武蔵一帯に熊野信仰がひろまったと考えられる。そして永享九年(一四三七)以後になると、品川の旦那がみえてくる。史料に即して書き上げてみると、次のようになる。
○永享九年(一四三七)十月十七日
熊野御師竹内祐実および同たたが、武蔵国神奈川・品川および武蔵一円の旦那を代銭十二貫文で実報院へ売却する(資五四号)。
○永享十二年(一四四〇)十二月十八日
熊野御師道満が、武州品川・神奈川の旦那を代銭二十三貫文で実宝房へ売却する(資五七号)。
○寛正二年(一四六一)四月十九日
熊野御師宗通十郎が、伊豆国一円および品川の旦那を寛正二年(一四六一)から文明七年(一四七五)までの十五年間にかぎり、代銭三貫文で佐藤三郎次郎に売却する(資六一号)。
○明応四年(一四九五)四月二十一日
熊野御師清水新助重勝が、旦那武蔵国南品川の井上はた六郎四郎殿子孫を、明応四年(一四九五)から永正元年(一五〇四)までの十ヵ年間を限り、代銭五貫文で某(実報院か)へ売却する(資六四号)。
いずれも那智御師実報院が買いとった旦那である。ここでの特徴は、たとえば「江戸名字書立」のように、武家の一族がひとまとめに旦那とされているのではなく、品川とか神奈川という一つの地域に住む人々が旦那なのである。明応四年(一四九五)の「南品川井上はたの六郎四郎」という人物の素性を明らかにできないが、神奈川と品川がならんで竹内祐実や道満の旦那であり、実報院の旦那になったことは、両港に住む問(とい)などの商人層が旦那の中心であったことを想像させる。こうした熊野信仰の品川における中心として、現在南品川四丁目に鎮座する熊野神社が勧請されたのであろう。永享十一年(一四三九)の「姓未詳憲泰寺領寄進状」(資五六号)にみえる「南品河熊野堂」は熊野神社の前身にほかならない。
熊野信仰よりすこしおくれて、伊勢信仰が庶民の間にひろまった。伊勢の御師も熊野の御師と同様で、多数の御師が宇治山田に住み、信者の奉幣の仲介や大麻(神符)の配布・宿坊の提供などを業とした。伊勢の御師には、室町時代末期になると商業や高利貸をいとなむものが現われる。つぎにあげる史料は、これまでたびたびふれてきた伊勢の有力御師久保倉藤三の永正十五年(一五一八)「阪東導者日記」(「神宮文庫文書」)から、品川の部分を抄出したものである。
(前略)
品川分
鈴木民部殿、百文 おひ一すち
宇田川宗左衛門殿、こうしもん十・かん一つ おひ一たん
同源五郎殿 一すち
吉田九郎三郎殿
らんそく左衛門尉大郎殿
高田平次大郎殿、五十文
大堀ひこ三郎殿、三百文 二すち
鳥海式部殿、尾弐左 一すち
甲一はね賀藤正清、 うすいた一たん
つんとうりや蔵山大郎四郎殿 二すち
関やすけ左衛門殿 一すち
国崎八郎大郎殿
ゐとはた鳥海左衛門尉殿、百文 帯一すち
大堀おい之助殿 一たけ
大塚こん六殿
おや五郎左衛門殿、花たて 二すち
岩瀬七郎左衛門殿、二百文 二すち
蔵方弥三郎殿 二すち
石かき三郎大郎殿 一すち
岩瀬孫左衛門殿
宇田河五郎三郎殿
鈴木大郎左衛門殿 帯二すち
田所彦二郎殿 一すち
(中略)
一品川之分北南
わいた殿 うすいた一たん
しやうせい 薄
うすい殿 同
うた川殿 同
二郎左衛門殿 ちや
ひこ三郎殿 帯半長
小五郎殿 同一すち
わいた孫兵へ殿 おひ・ちや
かふ山大郎二郎殿 くし
たうけんの又五郎殿 くし
渡柳五郎太郎殿 おひ一たけ
とりのうみけん阿み おひ一すち
くねき八郎太郎殿 同
くらやま殿 同
源大郎殿 くし
ちやうきや おひ一すち
大郎左衛殿 同
大ほり五郎三郎殿 おひ一すち
同彦三郎殿 くし
さぬき五郎さ衛殿 くし
吉田五郎さ衛殿 くし
又二郎殿 くし
こまた三郎太郎殿 くし
こんや兵衛殿 帯一すち
林さ衛門三郎殿 同
おうほとけ孫左衛殿 くし
こんや源さ衛殿 おひ一すち
こんさ衛門二郎殿 同
まちや五郎三郎殿 くし
御ちうけん三郎さ衛殿 おひ一すち
わいた藤さ衛殿 おひ一すち
おりも三郎大郎殿 同
もりた三郎五郎殿 同
とひた三郎衛門殿 同
こかちや殿 同
はし端殿 同
こすき新兵へ殿 おひ一すち
なるかは殿 同
いゝた満五郎殿 同
賀藤六郎左衛殿 同
いゝた入道殿 同
大つか左衛大郎殿 同
ひらの三郎さ衛殿 同
いわさき三郎大郎殿 くし
与大郎殿 くし
ひらのふん衛門殿 帯一筋
同けん衛殿 同
おうよ殿 くし
あハや助二郎殿 くし
やさわ殿 おひ一筋
かいとう六郎三郎殿 くし
志村三郎五郎殿 帯一筋
まいしま三郎五郎殿 帯一筋
おしま殿 同
まけや馬の二郎殿 同
六郎五郎殿 帯一筋
石井殿 同
大まけしや殿 同
藤田五郎二郎殿 同
うた河入道殿 同
ゑほや指出八郎大郎殿 同
同小五郎殿 同
せんは大郎三郎殿 同
同孫二郎殿 同
あい物七郎衛殿 くし
わたりや八郎五郎殿 くし
しほや左衛門尉大郎殿 おひ一すち
ありきや三郎左衛門殿 くし
四郎さ衛殿 くし
さへ殿 くし
八郎左衛殿 おひ一すち
大つか四郎衛門殿 同
うた川いや三郎殿 同
りうた平さ衛殿 同
おく二郎三郎殿 おひ一すち
いけた六郎さ衛門殿 同
よした九郎左衛門殿 同
すゝきゑもん二郎殿 同
ほして新三郎殿 同
せきや助さ衛殿 同、又ちや
村田大郎さへもん殿 同
同小大郎殿 同
せきや助二郎殿 くし
同さ衛五郎殿 おひ一すち
まちた三郎二郎殿 おひ一すち
せきや六郎さへもん殿 おひ
すかの弥五郎殿 おひ
かちや殿 くし
つちや孫衛門殿 くし
みつほしよこ衛殿 おひ一すち
ねきし大郎三郎殿 くし
はんちやうすけ大郎殿 くし
土や五郎さ衛殿 おひ一すち
ひこしやう殿 同
とりノうみしきふ殿 おひ
大堀おゝい助殿 おひ半たけ
とりノうみ彦二郎殿 同
大ほり彦二郎殿 たけ中
くしかた殿 一たけ
みやうさう六殿 おひ一すち
はたの大郎二郎殿 同
大つか殿 同
同大郎二郎殿 同
こんや彦二郎殿 同
いはせ殿 一すち
いしこ七郎大殿 一すち
らんそくや 同
同さ衛門三郎殿 同
とりのうみ兵衛大郎殿 同
(後略)
永正十五年(一五一八)、久保倉藤三は関東の旦那をまわって歩いた。その範囲は上野・下野・武蔵・下総・相模・伊豆の六ヵ国にわたり、武蔵では忍(おし)・江戸・浅草・中野・神奈川、それに品川である。『日記』の下段に書いてある品物は、久保倉が旦那に贈った土産である。旦那がただで土産をうけとるはずがなく、「鈴木民部殿 百文」というように適当な礼銭を払うから、御師はていさいのよい行商である。それはさておき、品川の旦那の数が多いことは一驚にあたいする。総数一三二人である。この数は江戸の旦那を多くみて二六人、浅草一人、中野六人、神奈川一二人、忍一人にくらべると、だんぜん多い。久保倉の武蔵国における地盤は、品川湊の町人的住人であったのである。ここに書かれた一人ひとりの素性を明らかにできないのが非常に残念であるが、一三二人のうち宇田川姓が六人、鳥海姓が六人、鈴木姓が三人いること、「関や」・「あいや」・「まけや」・「わたりや」・「ありきや」・「土や」・「こんや」など、商人を連想させる人々の存在が注意される。詳細な検討は後日をまたなければならないが、宇田川・鳥海・鈴木などを中心とする商人層がこの時代の品川を担った人々であったろう。そしてこのような状態が、後北条氏の支配にくみこまれる直前の品川の姿であったのである。