板碑と中世の信仰

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中世における信仰の実態と、集落の位置を示す資料の一として板碑(いたひ)がある。

板碑は、武蔵を中心とする地方では青石塔婆とも呼ばれているように、扁平青石=緑泥片岩(りょくでいへんがん)を使用した塔婆であり、墓地に造立されているものである。それは追善供養(くよう)が主体を占め、まれに逆修(ぎゃくしゅう)の場合がある。この板碑は、中世の庶民階層信仰に関する資料として、きわめて重要であるとともに、文献資料の限定性に対して普遍性を有し、武蔵国においては、その数約二万点といわれている。板碑は中世に初現し、近世に入ると姿を消すという中世的遺産として把握されており、中世史の研究において等閑視することのできぬものである。

 品川区における板碑は(『品川の民俗と文化』品川区史資料編別冊第二)一三〇余点が知られているが、紀年銘の明瞭な資料をもって、造立年次の実態を窺って見ると、第一一三図のごとくなる。上限は、一二六一(正嘉五)年、下限は一四九一(延徳三)年であり、約一三〇年間にわたって造立されていたことが知られる。また、これらの板碑に現われている主尊を分類してみると第16表のごとくなり、弥陀(みだ)がその主流をなしていることがわかり、さらにその造立年次は第一一三図に示すごとく、板碑造立数と比例している。とくに、一三五七(延文二)年より一三七五(応安八)年の間、一四〇一(応永八)年より一四二五(応永三二)年の間にその顕著な造立が知られるのであり、弥陀信仰の主流の実態を知ることができる。それに対して若干ではあるが、題目・名号および釈迦・大日の主尊も認められる。これによって、当時における日蓮宗の浸透などが窺われ興味ある資料となっている。


第113図 品川における板碑の年次別造立数と弥陀主導板碑の消長

第16表 品川における板碑の主尊別造立基数
弥陀1尊 47
弥陀3尊 23
題目 5
名号 2
釈迦 1
大日 1
106

 

 これら板碑の存在ならびに出土地点の確実なものは、御殿山(現法禅寺)・海晏寺・泊船寺・本照寺・海徳寺など海岸地域に集中している。これによって、中世における集落の位置が知られ、さらに品河湊の位置をも示している。

 なお、御殿山出土の板碑(口絵第二図)を蔵する法禅寺に「法禅寺遺墳碑」(一八六九(明治二)年造立)があり、一八五四(安政元)年におこなわれた台場築造時の土取り工事のさいにおける板碑、その他中世墳墓関係遺物の出土を示す珍重すべき由来碑が見られることを付記しておきたい。