北条旱雲の素性は謎につつまれている。伊勢国関氏の流れをくむとも、室町幕府政所執事伊勢氏の子孫、あるいは備中国後月(しつき)郡高越城主伊勢貞通の子ともいうが、はっきりしたことはわからない。しかし伊勢新九郎長氏と称し、姉が駿河国守護今川義忠の側室北川殿であった縁をたより、長享元年(一四八七)ごろ駿河にいたことはたしかである。早雲は太田道灌と同年齢で、このときすでに五十六歳であった。今川義忠の死後おきた今川家の相続争いを調停し、北川殿の子氏親を立てたので、功により駿東郡興国寺城主となった。
当時隣国伊豆には、堀越公方足利政知が命脈をたもっていたが、延徳三年(一四九一)子茶々丸に刺殺された。早雲はこの機会をみのがさず、伊豆に侵入して茶々丸をほろぼし、田方郡韮山に城を築いて伊豆国を支配下におさめた。後北条氏の遺臣三浦浄心が書いた『北条五代記』によると、早雲は降人となった佐藤四郎兵衛という武士の所領田方郡大見郷を安堵したので、上野に出兵中の伊豆の武士は、一人のこらず帰還して早雲の家臣となり、三〇日のうちに伊豆一国を平定してしまったという。『北条五代記』は後北条氏の仁政をたたえるための作為が歴然としているから、この伝えが事実かどうかわからないが、早雲が所領安堵をなによりももとめる武士の気持をつかんだのはたしかだろう。
明応三年(一四九四)に扇谷家の重臣小田原城主大森氏頼が死んだ。つい三浦時高が養子義同(道寸扇谷高救の子)に殺され、扇谷家分国の相模に混乱のきざしみがみえた。かねて相模進出をねらっていた早雲は、この機をのがさず、翌明応四年(一四九五)鹿狩りと称して勢子(せこ)すがたの兵士を箱根山中に集め、たやすく小田原城を奪った。小田原は以後一〇〇年にわたって後北条氏の関東経営の拠点となる。当時関東では両上杉氏の抗争がいぜん続いており、早雲は扇谷定正・朝良と結び、永正元年(一五〇四)武蔵の立河原で山内顕定と戦ったりしたが、もっぱら小田原周辺の経営に力をそそいだ。父祖以来扇谷家の被官であった西相模の在地武士たちは、早雲の家臣にくみこまれていった。御馬廻衆(旗本)や相模衆という後北条氏の中核的軍団が編成されたのはこのころであろう。永正二年(一五〇五)になって、両上杉氏は同盟して早雲にあたる体制をととのえた。しかし相模進出いらいすでに一〇年を経過した早雲の実力は、両上杉氏にどうすることもできない、たしかなものになっていたのである。
永正九年(一五一二)九月、早雲は大住郡岡崎城(平塚市)に三浦義同を攻めて三浦半島に追い、扇谷朝良の大庭(ば)城をおとし、北に兵を進め高座郡当麻(たいま)(相模原市)に禁制をかかげた(第一一七図)。十月には三浦半島のつけ根に玉縄城を築いて、三浦義同を半島におしこめた(『藤沢市史』一)。永正十三年(一五一六)義同・義意を新井城に攻め、ついに三浦氏を滅ぼした。早雲は小田原進出からじつに二〇年をかけて、相模一国を平定したのである。
永正十五年(一五一八)十月八日、伊豆田方郡木負(きしょう)の農民たちは、いままで見たことのない一通の書類を早雲から与えられた。そこには色あざやかな大ぶりの朱印がおしてあり、虎の模様と「禄寿応穏」という四字がみえた、そしてこの朱印状には、「この印判がなければ、郡代や代官が農民から雑税や人足を徴発してはならない」と書いてあった。在地武士の農民に対する勝手な支配を禁止し、武士と農民との間にあった個別的支配を断ちきって、後北条氏が直接農民をつかんでいこうというのである。これが後北条氏の「虎印判」(第一一八図)の使用はじめである。そしてこの虎印判状と、そこで打ち出された政策はやがて品川にもおよんでくる。