早雲は永正十六年(一五一九)八月十五日、伊豆の韮山で死んだ。嫡子氏綱があとをついだ。氏綱は父早雲にまさるとも劣らぬ英傑で、後北条氏の領国の拡大と経営に最大の努力をかたむけた。早雲が自重して、江戸を目前にしながら手をつけなかった武蔵を、領国にくみ入れたのが氏綱である。大永四年(一五二四)正月、江戸城主扇谷朝興にしたがって江戸城に在城していた太田源六資高が、祖父道灌のうらみをはらすためか氏綱に内通し、江戸城攻撃の手はずをととのえた。朝興は籠城をきらい、高輪原(港区)に出陣して氏綱と戦った。『北条記』によって合戦のもようをみてみよう。
北条新九郎氏綱、伊豆・相模の軍兵を引率して、江戸の城へ寄玉(たま)ふ、江戸の城主上杉修理大夫朝興、居ながら敵を防がん事武略なきに似たりとて、品川へ打ち出、道にて敵を待懸たり、去程に小田原の先陣と上杉の先陣曽我神四郎と、品川の傍(かたわら)高縄の原にて懸合(かけあわ)せ、汗馬(かんば)東西に馳違ひ、追つ返しつ、旌旗南北に開き分れ、巻きつ巻かれつ、互に命を軽んじて七八度ぞ揉(もみ)合ける、斯(かか)る処に氏綱の二陣の勢後馳(おくればせ)に駆(かけ)来り、二手に引分れ東西より囲(かこみ)をなし、短兵急にとりひしがんとす、氏綱釆配を挙(あげ)玉へば、上杉忽ち打負けて、江戸の城へ引籠る、氏綱逃るを追て押寄、をめき叫んで責玉ふ、鬨(とき)の声矢叫の音、総軍の〓(ののし)り叫声に、山川も崩れて海に入り、天地も打かへすかと覚ゆる斗(ばかり)なりければ、城中機を失て見えけるが、朝興終(つい)に堪(こらえ)かね夜に入ければ、城を開て同国川越城へぞ落行ける、夜明ければ、氏綱「敵は早(はや)落たりと覚ゆるぞ、追けて討(うて)」とて、板橋まで勢をつかはし、落行(おちゆく)兵を追討にこそせられける、其後城へ打て入、討とる首ども実検ありて、一っ木原へ旗ども打立、作法の如く勝鬨を上(あげ)る事三ヶ度なり、当国の住人毛呂(もろ)太郎・岡本将監を初として悉く馳付(はせつけ)ければ、弥(いよいよ)大勢になりて、江戸の城には遠山四郎右衛門を籠(こめ)られて、小田原へ帰り玉ふ。
確実な史料によるかぎり、品川のちかくで戦われた戦闘はこの合戦だけである。品川の町は相豆の軍兵であふれたにちがいない。氏綱は合戦の前日、妙国寺と本光寺に禁制を下し、軍勢が寺中で「濫妨狼藉」をはたらくことをかたく禁じた(資六八・六九号)。また『小田原記』によると、氏綱は城の修理を品川の住人宇多(田)川和泉守勝元らに命じた、という。ここでわたくしたちは、宇田川勝元が品川の「住民」といわれていることに注意しておこう。
こうして「武(武蔵)の安危はその一城(江戸城)にかかる」といわれた江戸城は、氏綱の手におちた。河越城に退却した朝興は、養子朝定に江戸城の奪回を遺言して死んだが、朝定は天文六年(一五三七)に河越城を奪われ、天文十五年(一五四六)の河越城攻囲戦で氏康に敗れ敗死する。扇谷上杉氏の滅亡である。ちょうど六〇年前、道灌が扇谷定正に暗殺されたとき、「当方滅亡」と叫んだことばが現実のものになったのである。氏綱は天文十年(一五四一)に死に、氏康がついだ。扇谷朝定を敗死させた「河越夜討ち」における氏康の勝利によって、氏綱・氏康が両上杉氏と一進一退の攻防をくりかえした状態に終止符をうち、山内憲政は上野に退却し、氏康にそむいた古河公方足利晴氏(氏綱は古河公方をだきこむために、娘を晴氏の妻とした)は古河に逼塞した。武蔵の滝山城主大石氏や、天神山城主藤田氏ら山内家の重臣が、ぞくぞくと氏康の軍門にくだり、山内憲政の勢力は武蔵からふきはらわれた。氏康はのちに子氏照を大石氏の、氏邦を藤田氏の養子に入れ、領国支配のかなめにすえる。天文二十年(一五五一)、氏康は山内憲政を上野平井城に攻め、翌二十一年(一五五二)憲政は越後守護代長尾景虎(のちの上杉謙信)をたよって亡命する。それ以後の関東の歴史は、上杉謙信の関東進入と後北条氏の防衛をめぐって展開するのである。