天文二十一年(一五五二)七月の平井城落城は、後北条氏の関東制覇に画期的な意味をもった。「小田原旧記」が「天文二十一年七月二十日、上州平井の合戦に勝利した後、関東八ヵ国全部が後北条氏の支配下に入ったので、祝儀として同年十一月二十日、家臣たちに御褒美を下され、所領の加増や替地の給与は追って沙汰する、という達しがあった」と書いているように、所領の新給と替地の給与を通じて、家臣団の再編成をすすめたらしい。その結果、一人々々の家臣が所属する「衆」(軍団)、所領の所在地と軍役高をまとめあげた帳面が作られた。永禄二年(一五五九)の『小田原衆所領役帳』である。
『役帳』は第17表のように構成されているが、後北条氏の重要な支城である滝山城(のち八王子城)と鉢形城に所属する「衆」の役帳は現存しない。永禄二年(一五五九)にはまだつくられなかったのか、あるいは現在に伝わらないかである。諸「衆」のうち江戸衆の一〇三名がもっとも多く、役高累計も一万六七八〇貫余で他を圧倒する。江戸城の重要性の反映である。さてこの『役帳』に、品川区域はどのように書かれているだろうか。第18表で品川区域に知行地をもつ武士の役高を示したが、江戸城に在番したり、戦争のときに江戸城代の指揮下に入る江戸衆と、御家門葛西(かさい)様(古河公方足利義久)に限られ、他の「衆」に所属する武士は、区域に知行地をもっていない。以下、杉山博校訂『小田原衆所領役帳』を参考に、品川区域に知行地をもつ武士を検討してみよう。
順位 | 衆別 | 人数 | 役高 |
---|---|---|---|
貫 文 | |||
1 | 江戸衆 | 103 | 16,780.528 |
2 | 小田原衆 | 34 | 9,287.979 |
3 | 御馬廻衆 | 94 | 8,426.524 |
4 | 御家門方 | 17 | 7,760.428 |
5 | 玉縄衆 | 18 | 4,257.243 |
6 | 他国衆 | 28 | 3,617.737 |
7 | 小机衆 | 29 | 3,438.192 |
8 | 伊豆衆 | 29 | 3,392.864 |
9 | 松山衆 | 15 | 3,390.427 |
10 | 三浦衆 | 32 | 3,344.188 |
11 | 諸足軽衆 | 20 | 2,260.780 |
12 | 津久井衆 | 57 | 1,697.293 |
13 | 寺領 | 28 | 1,289.266 |
14 | 御家中役之衆 | 17 | 1,213.799 |
15 | 社領 | 13 | 1,113.232 |
16 | 職人衆 | 26 | 897.959 |
計 | 560 | 72,168.259 |
(杉山博校訂『小田原衆所領役帳』)
衆別 | 家臣名 | 地名 | 役高 | 役高総額 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
貫 | 文 | 貫 | 文 | ||||
川村跡 | 江戸 | 太井 | 56 | 560 | 178 | 560 | |
島津孫四郎 | 北品川法林院分 | 16 | 630 | 533 | 132 | ||
中之部品川筋永福寺分 | 2 | 000 | |||||
江戸衆 | 島津又次郎 | 北品川法林院分 | 15 | 000 | 138 | 954 | |
太田新六郎 | 品川内 | 布西寺分 | 2 | 500 | 1,419 | 900 | |
梶原 | 六郷内 | 戸越村 | 13 | 300 | 29 | 300 | |
栗田口 | 品川内 | 栗田口分 | 14 | 500 | 14 | 500 | |
御家門方 | 葛西様御領 | 江戸 | 品川南北 | 77 | 350 | 395 | 110 |
①川村跡 旧川村某の知行地で、永禄二年(一五五九)現在の知行人は不明。川村某は『小田原旧記』にみえる川村三郎右衛門か、御馬廻衆川村金千代の一族か。太井のほかには相模渋沼(神奈川県秦野市渋沼)・江戸新倉(埼玉県新座郡大和町新倉)・江戸泉村(杉並区和泉)に知行地をもつ。
②島津孫四郎 『小田原旧記』に「当時浮役寄合衆」(後北条直臣で江戸衆に編成された予備隊)とある。相模西郡桑原郷(神奈川県小田原市桑原)一七〇貫文のほか、現在の東京都内にひろく知行地をもち、役高も五三三貫と江戸衆のうち第八位で、有力な武士である。天文十二年(一五四三)九月六日に、島津右衛門尉忠貞という人が、北品川の清徳寺に「清徳寺領岡地」を寄進(資八〇号)しているが、孫四郎と同族か。『新編武蔵風土記稿』所収「諸家系図」に、薩摩の島津忠幸の子長徳軒が、享禄年間(一五二八~一五三一)下野の足利学校へおもむく途中、遠江今切(浜名湖)沖で遭難して今川氏親をたより、のち北条氏康に医術をもって仕え、軍法にすぐれた、という伝をのせている。江戸島津氏は長徳軒の子孫であろう。
③島津又次郎 北品川法林寺分は孫四郎から譲られる。孫四郎と同様に桑原郷五〇貫文のほか、稲毛末長(神奈川県川崎市末長)・同久本(川崎市久本)・中野(中野区)正歓寺に知行地もつ。
④太田新六郎 名は康資、大永二年(一五二二)北条氏綱に内通した資高の子。永禄五年(一五六二)氏康にそむき、一族岩槻城主太田資正をさそい、里見忠弘とともに下総国府台(こうのだい)(千葉県市川市)に北条勢と戦い、敗れて安房に隠退する。江戸随一の豪族で役高は江戸城代遠山綱景につぎ、江戸・中野・六郷・稲毛(いなげ)(川崎市)・小机(横浜市)に知行地をもつ。
⑤梶原 名未詳・太田康資の寄子(よりこ)(部下)で康資の所領を配分されている。戸越村のほかに六郷内根岸で一六貫文を知行する。『役帳』には江戸馬込三二貫六〇文の知行地をもつ梶原助五郎、六郷内新井宿に五一貫文の知行地をもつ梶原日向守がいる。梶原氏の屋敷跡は馬込根小谷(現大田区南馬込四丁目)の熊野神社近辺であり、万福寺に梶原三河守影時・同助五郎影末の碑があったという(『新編武蔵風土記稿』)。梶原某は、馬込を本拠とする梶原氏の一族であろう。
⑥栗田口 未詳。
⑦葛西様 最後の古河公方足利義氏である。母は北条氏綱の娘。天文二十三年(一五五四)父晴氏が北条氏康にそむいたとき、ともに捕えられて相模の秦野(はたの)に幽閉された。弘治三年(一五五七)に鎌倉の葛西ケ谷に移されたので、葛西様と呼ばれた。のち下総の関宿に帰る。義氏が後北条氏から与えられた料所(『役帳』によると南北品川のほか、小机長津田・同子安・江戸平塚)に対して独自の支配をおこなっていたことは、年未詳八月十五日の朱印状で義氏料所内における江の島岩本坊の勧進を承認していること(資九九号)、年未詳十二月十五日に義氏の家臣瑞雲院周興が、品川南北町人衆・同百姓衆・同散田(さんでん)衆(品川への他村の入作者か)に三貫三一〇文の夫銭の納入を命じていること(資一〇六号)から明らかである。
品川区域に知行地をもつ武士は『役帳』によるかぎり、右の七名であるが、『役帳』がつくられた後に、品川で知行地を与えられたものがいた。公方義氏の家臣野田政朝がその一例である。政朝は永禄七年(一五六四)五月二十七日、北条氏政が発給した虎印判状によって、品川の内一二貫文の田地(後北条氏の水田の貫高算出数字は一反あたり五〇〇文であるから、一二貫文の水田面積は二町四反になる)を、義氏の代官瑞雲院周興の代理公方奉行興津勘兵衛と、中田修理亮から受けとるように指示された(「野田文書」)。現存の史料で確認できるかぎりでは、品川区域に知行地をもつ武士は、以上の八名である。しかしいうまでもなく、区域全体がこの八名に支配されていたのではないだろう。第18表に現われない区内の地名が多いし、前述のように、滝山衆や鉢形衆が、区域内に知行地をもっていたことが想定されるからである。それを確められる手だては失われてしまったが、第18表によるかぎりでも、区域内の知行地分布について、次のような特徴をうかがえる。
第一に、川村某が知行した太井村五六貫文余、太田康資の寄子梶原某が知行する戸越村一三貫文余は、太井村と戸越村の全耕地の貫高ではなかろうか。いいかえれば太井村の全耕地は川村某に、戸越村の全耕地は梶原某の知行地である可能性が高い。第二は、品川と中之部(中延)を知行する五人の知行人のうち、栗田口をのぞく四人の品川・中延における役高は、かれらの役高総額のごく一部にすぎない。要するに、品川と中延はいく人もの知行人によって、分割知行されているのである。このような一円知行と、分割知行がどのような理由で現われたのか、明らかにすることはできないが、品川区域が後北条氏の支配下に入り、江戸周辺の在地武士が家臣にくみこまれて行く過程で、本領安堵だけでなく、新知行の給付と所替えがかなりひろくおこなわれたことが考えられる。もともと江戸周辺の地付きの武士でない、川村・島津・栗田口・足利義氏らの知行地が区域にみられるのは、そのあらわれではなかろうか。わたくしたちは品川区域を支配したこれらの武士に、南北朝・室町時代以来、鎌倉府や上杉氏にかわる新らしい中心をもとめつづけて、関東の歴史を動かしてきた国人たちの子孫をみる。かれらは後北条氏の家臣にくみこまれ、領主権を制限され吸収される一方、後北条氏の強大な権力にささえられて区域の農民支配をおこなうことができたのである。