公事赦免

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天文十九年(一五五〇)四月一日、南北品川の農民は「国中諸郡退転につき、庚戌(天文十九年)四月、諸郷公事赦免の様躰の事」と題し、厳然と虎朱印を押した印判状を北条氏康から与えられた(資九一、九二号第一二一図)。それは次のような内容であった。

1今後「諸点役」のかわりに一〇〇貫文の地から六貫文の割合(六%)で「役銭」を徴収することに決定した。北品川村の高は三二貫二六九文(南品川は五〇貫七七文)であるから、この村高に対する「役銭」は一貫九三五文(南品川は三貫文)になる。この「役銭」に相当する人夫と馬を調達して、下総の古河への人夫徴発にそなえよ。そのかわりに、今後は昔から徴収していた諸公事(くじ)はのこらず赦免する。どんな細かい課税もおこなわない。郡代や触口(命令伝達者)が勝手に税をかけてはならない。もし、この命令にそむいて課税をするものがあったなら、百姓は小田原城へでかけてきて直訴せよ。ただし陣夫と廻陣夫と大普請は、八貫文の割合で夫銭を出せ。

2代官であっても、百姓が迷惑する公事などを課すものがあったら直訴せよ。

3逃亡してふたたび帰村した百姓には、借銭・借米(年貢や雑税の未納分)を免除する。ただしこの特典は今日までに帰村した百姓に適用するのであって、今後逃亡するものは免除しない。

4今後虎の印判が押してない書類で、郡代が人夫を徴発してはならない。


第121図 北条氏康朱印状(武州文書)

この「公事赦免令」は南北品川だけにあてられたのではなく、現存のかぎりで武蔵都筑郡本牧村(横浜市南区)、相模高座郡田名・磯部(相模原市)・相模足柄下郡一色(小田原市細一色)駿河駿重郡長浜(沼津市長浜)にも下された。南北品川あてのものを他と比較すると、第一条で南北品川あての「役銭」が古河への夫馬調達にふりかえられているのに対し、他が六月と十月の二回にわけて小田原城の御蔵へ納めるように命じられ、第二条で南北品川宛が代官とあるのに対し、他が地頭・代官(本牧)・地頭(田名・磯部・一色)となっているなどの相違がある。ところで、南北品川の村高合計八二貫三四六文が、永禄二年(一五五九)の『役帳』にみえる葛西様=足利義氏の役高七七貫三五〇文に近いことに注意したい。『役帳』における義氏領の「品川南北」は、「公事赦免令」の南北品川と同一対象、いいかえれば、義氏の父晴氏が北条氏康と結んだときに与えられた御領所を、義氏が継承しているのではなかろうか。そのように仮定してみると、第一条で南北品川のみ「役銭」を古河への夫馬にふりかえる例外と、第二条が地頭(知行人)でなく、代官(瑞雲院周興)である理由が合理的に理解できる。しかし、「公事赦免令」が対象とした南北品川が、公方晴氏―義氏の御領所であっても、後北条氏の支配が強くおよんでいたであろう。義氏の御領所橘樹郡子安郷が永禄八年(一五六五)の風損によって、北条氏康から「国並十分一」の年貢(?)を免除されているのはその例証である(「武州文書」)。南北品川は後北条氏の直轄地に準ずると考えてよい。

 このような内容をもつ「公事赦免令」は、後北条氏の税制と領国支配の基本政策を示す貴重な史料である。天文十九年(一五五〇)といえば、河越夜戦(よいくさ)で両上杉氏の息の根をとめ、北武蔵を支配下におさめた天文十五年(一五四六)から四年後であるが、勢いにのる後北条氏の足許で、農民が国中諸郡から退転し、年貢・公事を未納して逃亡するという深刻な事態がおきていた。北条氏康は、このような事態のなかで、従来、農民に課していた「諸点役」を整理して、「役銭」に統一し、それ以外の雑多な公事(雑税)の賦課を廃止したのである(ただし合戦のときに人夫として農民を徴発する陣夫や城・橋梁・道路などの構築や修理に徴発する大普請はそのまま継続する)。そして「役銭」の賦課基準は、検地で打ち出された村高(貫高)の六%ときめられた。後北条氏の税制は「公事赦免令」の施行によって非常に強化された。なぜなら、従来の在地の歴史的背景や、力関係に応じて課せられていた雑多の税のかわりに、検地で確実に把握した村高に一律六%をかけた「役銭」を徴集することができたからである。「公事赦免令」は公事の赦免でも、農民に対する優遇でも譲歩でもなかったのである。こうしてこれ以後、後北条氏の領国では本年貢は知行人の所得、「役銭」=反銭・懸銭(村高の四%)・棟別銭は、地頭や代官を通じて後北条氏が徴収するという徴税体系が確立した。

 ところで「公事赦免令」にはもう一つのねらいがあった。第一条で郡代・触口による「役銭」以外の徴集を禁じ、第二条で代官の公事徴集を禁じ、第四条で虎印判によらない夫役の徴発を禁じているように、知行人の所領内や、管理地内における勝手な農民支配(それが在地武士の既得権であった場合が多い)をたちきり、後北条氏が農民を直接につかんでゆこうとする政策が、はっきりと打ち出されている。これを品川区域に即していえば、義氏代官の周興や太田康資・島津弥四郎らが、定められた以上の、税目と税額を農民からとることができなくなったのである。

 地頭や代官が徴集した反銭・懸銭・棟別銭は、小田原の本城や支城に集められた。納入先は郷村によって異なるが、永禄七年(一五六四)における南北品川の諸税の納入先と納入方法は次のようであった(資九八号)。

1棟別銭と懸銭に撰銭(えりぜに)をおこなう。上銭(品位の上等な銅銭)は標準銅銭(永楽通宝)一〇〇文に対し、四〇文から五〇文の間に決めるから、注意して上銭をえらびだし、一貫文(一、〇〇〇文)ごとに百姓の封印をつけ、決められた日限どおりに所の奉行(江戸城の奉行か)へ納入せよ。懸銭は小田原の長田源右衛門へ納入せよ。納入期限は九月晦日と十月晦日とする。銅銭の品位査定は九月十五日・同晦日・十月十五日・同晦日の四日に定める。この四日間に諸郷の百姓は小田原に集まり、もし悪銭があったらとりかえさせる(『新編武蔵風土記稿』所収の同文書には、第一条の「棟別銭」のわきに「弐拾四貫卅文」、「懸銭」のわきに「拾貫六百十文」という注記がある)。

2撰銭は百姓が迷惑するから、反銭(八貫四〇〇文)は米納をみとめ、当年は「穀反銭」とする。この換算値は一〇〇文につき一斗三升とし、反銭奉行に納入せよ。米のはかり手は百姓頭とする。夫銭は米・雑穀で納めよ。

 中世の流通銅貨には中国から輸入した永楽銭などの品位の高い貨幣(精銭)のほかに、国内で鋳造した私鋳銭や、欠けたり、すり減ったりした悪銭があったので、幕府や大名は、一定の品位をもつ悪銭を精銭と同じ価値をもつ銭として通用を命じたり、悪銭を精銭に対して、一定の倍率で通用させたり、一定金額のうちにまぜてもよい悪銭の量を決めたり、いろいろな流通政策を施行した(撰銭令)。後北条氏はたえまない合戦に備えるための軍備拡充の必要から、精銭の上納を農民に要求した。しかし現実には精銭の流通が少なく、農民が精銭の獲得に困るであろうから、精銭の二分の一の価値をもつ悪銭を納入してもよい(全額上銭で納入すれば納入額は精銭の二倍になる)さらに、本来は銭納が原則であるべき反銭を米納にきりかえる。これを「穀反銭」(大変奇妙な言葉といえる)というのである。

 南北品川の反銭は八貫四〇〇文で、銭の米への換算値は一〇〇文につき一斗三升であるから、穀反銭は一〇石九斗二升になる。さらにこの換算値で、かりに棟別銭・懸銭を米になおすと四五石余になって、南北品川の農民が、後北条氏に納める負担はかなり多額なものになるだろう。農民の負担はこれだけではない。本年貢は知行人の所得であった。後北条領国下の本年貢は貫高一〇〇文につき米一斗二升~一斗四升、麦三斗五升であったから、かりに南北品川の村高八二貫三四六文を一斗二升替えで米納に換算すると、六八石余になる。そのほかに後北条氏が農民を徴発する陣夫や大普請役があった。後北条氏がいくら地頭代官の収奪を禁止しても、それは農民が大名権力にますます強く握られるに過ぎなかったのである。天正二年(一五七四)以後、南北品川の農民が訴訟と逃散(ちょうさん)という手段で、後北条氏権力の末端である代官に抵抗する素地は、すでに用意されていたといえる。

 

 永禄七年(一五六四)の南北品川の反銭額八貫四〇〇文は、天文十九年(一五五〇)の「公事赦免令」で決定された南北品川合計四貫九三五文から、いちじるしい増徴になっている。相模国高座郡田名村の反銭額が、天文八年(一五三九)以前=二貫二八三文・天文十九年(一五五〇)以前=六貫三三〇文・天文十九年=七貫四八一文・天文二十一年(一五五二)=六貫三二〇文・弘治元年(一五五五)=八貫四二七文・永禄六年(一五六三)=七貫二〇〇文・永禄九・十一・十二(一五六六・六八・六九)=八貫四二〇文・天正九年(一五八一)=一二貫六四一文とふえている(『相模原市史』一)。反銭の増徴は品川だけでなく、領国全体を通じてみられたのである。

 後北条氏領国下の品川の町人の実態は、室町時代にくらべてはっきりしてきたとはいえない。しかし、この時代に「品川町人」にあてた文書が、はじめて出てくることは重要である。あとで触れるように、天正二年(一五七四)九月一日の「北条氏照判物」(資一〇〇号)の宛名は「品川町人百姓中」であり、前掲の年未詳「瑞雲院周興判物」の宛名は「品川南北町人衆・同百姓衆・同散田衆」であった。天正十一年(一五八三)四月十一日「北条氏照朱印状」(資一〇三号)の宛名中嶋三右衛門・宇田川勝種・鳥海和泉守・宇田川勝定は、「百姓中」に対応する町人衆の代表であったろう。大永二年(一五二二)に海徳寺を創建した鳥海和泉守と大永四年(一五二四)に江戸城を修築した品川の住人宇田川勝元の子孫が、品川の町人としてはっきり姿をみせたのである。これらの町人の人数も、商業活動の実態もわからないが、年未詳六月十五日に後北条氏の当主が、品川で一五貫文の米穀を五日以内に購入するように、興津と桜井に命じていること(資一〇七号)から、品川が米穀の流通機能をもっていたことがわかる。おそらくこの時代の品川は、前代の湊の機能に加えて、領主の年貢米の売却、必需品の購入の場としての、領国経済の一環をになう市場の役割をもつようになっていたのであろう。品川に接する二日五日市村という村名は、明らかに六斎市に由来するから、二日五日市村をふくむ品川が、市場の機能をもったことは、ほぼ確実である。近世品川宿の母胎は、後北条氏領国のもとで形成されていたのである。