後北条氏の領国は、氏直のときに最大の規模に達した(第一一九図)。天正五・六年(一五七七・八)に、常陸佐竹氏と安房里見氏を降し、天正十年(一五八二)の武田勝頼滅亡のときに上野をとり、天正十七年(一五八九)には下野宇都宮氏の内紛に介入して宇都宮国綱を降伏させ、伊豆と関東八ヶ国を版図(はんと)におさめる大領国を作りあげた。しかし後北条氏をとりまく情勢は、関東に進入する上杉謙信と対抗し、謙信と結ぶ北関東の豪族を各個撃破した時代とは大きく変わってきた。いわゆる織豊政権は畿内を足場にして、集権的な国家体制の確立にむかって着実な歩みをすすめており、後北条氏は中央の政治情勢にいやおうなく対処しなければならなくなったのである。
天正十年(一五八二)六月の本能寺の変で織田信長が急死したあと、信長の部将羽柴(豊臣)秀吉が実力で信長の政権を継承し、十三年(一五八五)に四国の長宗我部元親を討ち、十五年(一五八七)には九州に遠征して薩摩島津氏を降伏させた。天正六年(一五七八)の上杉謙信の死によって大きなうしろだてをなくして、一時後北条氏に屈伏した佐竹・佐野・宇都宮・結城氏などは、秀吉とよしみを通じ、ふたたび後北条氏に対抗した。後北条氏は秀吉の影響力が関東におよんでくる情勢を前にして、全国統一政権の樹立に直進する豊臣政権の主権のもとにくみこまれ、領国の削減や転封を覚悟のうえで秀吉に屈伏するか、実力で領国を守るかの二者択一を迫られた。秀吉と氏直の交渉は天正十六年(一五八八)に秀吉が氏直の上洛を命じたことにはじまった。氏直はこれに従わず、叔父の韮山(にらやま)城主北条氏規を上洛させた。両者の交渉点は、上野沼田領の帰属問題であった。当時沼田領は、武田氏の旧臣真田昌幸の支配下にあり、上野(こうずけ)国内で後北条氏の力がおよばないただ一つのところであった。氏直は沼田領の割譲を条件に、豊臣政権との連合を承認しようというのである。結局秀吉が譲歩して、名胡桃(なぐるみ)をのぞく沼田領を氏直に与えることになった。しかし十七年(一五八九)、鉢形城丘が真田領名胡桃を奪取した事件をきっかけに、秀吉は後北条氏討伐を決意し、諸大名の軍勢を動員した。
後北条氏は、秀吉との対決がさけられなくなった天正十年代に、さかんに軍備の増強につとめた、天正十五年(一五八七)、氏直は領国内の郷村に定書を下して、鑓(やり)・弓・鉄炮のうちどれかをもち、「腰さし類ひらひら武者めくよう」用意した「侍・凡下(ぼんげ)」の人数を申告させ、人夫同様のものを出した村役人を死刑に処すとおどし、よく働いた「侍・凡下(ぼんげ)」には望みどおりの恩賞を与えると約束した(「武州文書」)。本来の軍隊の中核である家臣以外に、郷村の「侍・凡下」=有力名主百姓たちを動員しようというのである。しかし動員の対象にされた名主百姓こそ、地頭代官への抵抗から後北条氏権力に直接敵対してきた階層であった。織田信長と豊臣秀吉は、畿内地方平定の過程で、検地と刀狩りを通じて兵農分離を推しすすめ、名主百姓を被支配者の地位におさえこんだ。豊臣政権の強大な軍事力は、統一された領主階級が全体的に農民を支配することによってもたらされたのである。豊臣政権と後北条氏との軍事力の量と質は決定的に異なっていて、戦うまえに勝負がついていた。
天正十八年(一五九〇)三月、秀吉は京都を出発し東海道を下った。徳川家康が東海道の先鋒となり、伊豆韮山城をかこみ、豊臣秀次は小田原の前衛箱根山中城を陥した。上杉景勝・前田利家・真田昌幸の軍勢が上野から侵入して松井田城・鉢形城・八王子城を攻略した。秀吉は早くも四月に小田原南郊の石垣山に陣し、長期包囲の態勢をととのえた。氏政・氏直父子は領国の主な支城主を小田原城にあつめ、結束をかためて籠城したが、長期の籠城につかれ、重臣松田憲秀の裏切りに動揺し、さきに開城した韮山城北条氏規の和議のあっせんを受け入れて、六月二十九日に降伏した。秀吉は氏直の命を助けて高野山に追放し、父氏政・叔父氏照らを切腹させた。領国は徳川家康に与えられた。北条早雲が堀越公方(くぼう)を滅ぼして伊豆を奪取した延徳三年(一四九一)から、ちょうど百年後のことであった。