江戸時代の村

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江戸時代の村は今日の概念では、何某村何部落と呼ばれているもの、すなわち村の下にある大字(おおあざ)で呼ばれているものに当たる。それは村の成立事情とか成立条件からみて、人間が農耕生活を営むためにつくった自然的集落であるといえる。つまり江戸時代の村とは、農民の再生産のための集団だということになり、このような集団を村落共同体と呼ぶ人もある。江戸時代の為政者はこのような集落を行政上の村として捉え、行政の最末端機構とした。

 江戸時代の村は幕末ころ、安政元年(一八五四)の『治所一覧』によると、全国で六万三一二六ヵ村となっている。全国を平均してみると

   一ヵ村当り村高 四〇八・五七石

   一ヵ村当り人口 四〇四・九四人

となる。しかしこれを国別に見ると、村の大きさも大小かなりのひらきがあり、大きい方では平均村高一、〇〇〇石以上の薩摩・周防などがあり、小さい方では二〇〇石以下の筑後・対馬・飛騨などがある。関東地方の場合を見ると、

 相模国  村高 三八〇石

      人口 四〇九人

 武蔵国  村高 三九六石

      人口 五六〇人

 安房国  村高 三四一石

      人口 四八八人

 上総国  村高 三二六石

      人口 三〇四人

 下総国  村高 三八三石

      人口 三二二人

 常陸国  村高 五三九名

      人口 二八九人

 上野国  村高 四八八石

      人口 四〇九人

 下野国  村高 五〇一石

      人口 二九七人

となっている。また幕府は享保十八年(一七三三)、適正貢租量を決めるために、関東郡代伊奈半左衛門以下練達の地方(じかた)役人一六人を動員し、モデル村落をつくって入念な収支計算をするが、そのときのモデル村落は

村高 二百石七斗

 此反別 二拾二町五反八畝廿五歩

   田 百石余

    此反別拾町歩余

     石盛 上拾弐、中拾、下八

   畑 百石余

    此反別拾弐町五反八畝廿五歩

     内屋敷八反歩

     石盛 上拾、中八、下六

家数 二拾四軒

人数 百弐拾人

       内 男 六〇人

         女 六〇人

     馬 六匹

となっている。別に解説を加えないが、「人数」のところに註釈がついていて「男女百弐拾人之内拾弐人ハ職人商人拾分壱之積=男女一二〇人のうち一二人は農民ではなく職人や商人である。村のなかの農民にたいする職人・商人の割合は一〇パーセントの概算である」とある。このモデル村落例は天領村々を考える場合知っておいてよい数字である。

 つぎに江戸時代の村の耕地について触れておこう。江戸時代の農業の骨子は、水田稲作農業である。水田が江戸時代耕地の主体であることはいうまでもない。しかし畑地がないわけではなく、享保十八年のモデル村落が、田畑比率を石高にして一対一、耕地面積にして一対一・二としているように、実際には畑地比率は非常に大きいのである。とくに関東の場合は、幕府が関東の地を旗本たちに知行割するときは、田の割合を一六~七パーセントから二〇パーセントまでにせよと指示している(『刑銭須知』)ように、畑の割合は非常に高いので、それを七〇~八〇パーセントとしておいて大過ないのである。以下参考までに、品川区地域村々の村高と家数と田地の面積比率をあげておく。人口がわかればなおよいのだが、それがないので家数をあげる。家数から人口を算出する定法はないが、五人を掛け合わせれば、あまり大過のない数字が得られよう。石高と家数は「武蔵国御改革組合限石高家数村名録」(学習院大学蔵・名栗村「町田家文書」)を用いた。この家数は天保年中のものである。

第20表 品川区地域村々の村高家数田地面積比率表
村名 石高 家数 田地面積比率
南品川宿 五四五・五 六七二 三二・九
北品川宿 四四五・三 九二〇 三二・六
二日五日市村 九八・九 二一 四一・四
下大崎村 二三七・三 四二 四一・四
居木橋村 二二一・八 四〇 四四・一
上大崎村 一五八・七 二三 一六・一
谷山村 一一〇・一 二一 一五・四
桐ケ谷村 三六七・三 五八 三一・二
戸越村 七五三・二 一四五 七・〇
上蛇窪村 一八五・五 三六 二三・一
下蛇窪村 二七三・一 五〇 一七・四
大井村 一五六三・〇 五一三 二八・一
中延村 四八〇・五 六二
小山村 二六九・三 六三