1 品川宿

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 品川宿は大きく分けて北品川と南品川に、さらに小さく分けて北品川宿と北品川歩行新宿、南品川宿と南品川猟師町とにわかれ、南品川の場合はのちに南品川新開場(利田新地)が加わる。北品川と南品川の境堺は目黒川筋で、その北側が北品川、南側が南品川となるが、現在の目黒川筋は改修によって往古のような蛇行が改められているので、江戸時代には南品川に属していた猟師町・利田新地、また荏原神社(江戸時代は貴船神社)などは現在は目黒川北岸に位置するようになっている。

 品川宿の四隣は、東側は海面、西側は二日五日市村・居木橋村と下大崎村、南側は大井村と下蛇窪村とである。地勢は北に八ッ山、西に御殿山、権現台の丘陵と、西南に浅間台の丘陵があるが一帯は平地で、品川宿は東の海から西の居木橋(いるきばし)・下大崎村までが平均一三町ほど、南の大井・下蛇窪から北堺の高輪までが平均一七町ほどの狭い地域にひろがった町である。

 天保十三年(一八四二)の「宿方明細書上帳」によると、南北両品川を合わせて合計高は九九〇石九斗五升九合であり、そのうち南品川宿は五四五石五斗七升弐合、北品川宿は四四五石三斗八升七合となっており、南品川宿のうちには猟師町九石三斗六升六合七勺が、北品川宿のうちには歩行新宿三〇石三斗三升三合がおのおの含まれている。両宿の反別および田畑別を示すとつぎのようである。

南品川宿

           反  畝  歩

  田      一九九 二 一三

  畑      四六一・七 〇四

   計     六六〇・九 一七

            石 斗 升 合

  この石高   五四五 五 七 二

北品川宿

           反  畝  歩

  田      一六三 八 〇五

  畑      四二九・四 一五

  計      五九三・二 二〇

            石 斗 升 合

 この石高    四四五 三 八 七

 家数は一、五六一軒、人数は六、八九〇人(うち男は三、二七二人)となっているが、これを南北品川別に分けると

南品川

 家数   六五四軒

 人数  二、六四五人

  男  一、三〇五人

  女  一、三四〇人

北品川

 家数   九〇七軒

 人数  四、二四五人

  男  一、九六七人

  女  二、二七八人

となっている。なお品川両宿の家数・人数と、その構成を年代をおって書上げてみるとつぎのようになる。

 享和二年(一八〇二)から慶応二年(一八六六)の六五年間に家数は一、六〇三軒から一、六七八軒に、人口は六、一二〇人から七、五五四人へと大きく増加している。江戸の人口がほとんど増加を止めた時期であるので、この増加は注目されるが、いまひとつ、男女比率をみた場合、女性の数がいちじるしく多いことが注意をひく。その理由は、この地が江戸の一大遊興地をなしており、その種の女性が非常に多かったことによると考えられる。そのことは、その種の女性の少なかったと思われる猟師町のみが、男女比率がほぼバランスがとれていることからも推測できよう。

 第21表 品川宿の家数人数表
享和2年(1802) 文政11年(1828) 天保14年(1843) 慶応2年(1866)
家数 人数 家数 人数 家数 人数 家数 人数
南品川宿 527 2005 2176 567 2293
1062 1049
1114 1244
猟師町 135 525 469 148 655
243 318
226 337
北品川宿 522 1996 2650 545 2513
1261 1114
1389 1399
歩行新宿 388 1764 1595 418 2093
706 812
889 1281
(合計) 1603 6120 1572 6290 1561 6890 1678 7554
3079 3272 3293
3041 3618 4261

(『品川町史』より)

 

〔補註〕

江戸の人口と男女比率

 江戸の人口は普通百万人くらい、といわれているが正確なことはわからない。それは今後研究がどんなにすすんでも同じことであろう。というのは江戸の人口を構成する武家関係人口、社寺関係人口および町奉行支配の人口(これを普通町人という)のうち、武家関係人口がわからないからである。

 ところで江戸の人口についての学説は、時代がすすみ研究が重ねられるにつれて減少する傾向がある。すなわち初めは三百万人くらいといわれていたのが二百万人に、さらに百万人ということになって、これが現在の通説である。がこれとて正確でなく疑問点が多い。日本の人口調査が定期的におこなわれるようになったのは八代将軍吉宗の時からである。

 この調査によると、享保時代の町奉行支配の人口(町人人口)は約五〇万、寺社奉行支配の人口(寺社門前地の人口)は約五万人、合計五五万人ということになっている。あと武家人口がどれだけいたかで、江戸の総人口は決まるのだが、残念ながらその手掛りはない。

 ところでこのわかっている町人人口の細部をみると、おもしろいことに気がつく。それははじめは総人口のなかに占める女子の比率が非常に少ないということである。これは江戸が出稼ぎの地であり、生活をかけた修羅の場であったからであろう。諸国から一旗あげることをねらって、多くの男たちが集まってきた。かれらは妻を持って家庭をきずくことよりも、まず生活の基盤を確保することに精いっぱいだったのであろう。吉原をはじめ品川のような遊里が栄えたのはこのような人口構成とも関係があったのである。

 享保期くらいまでが江戸の発展期で、この時期からだんだんと安定・停滞期にはいるというのが通説であるが、そのころから女性の占める比重がしだいにふえている。江戸が出稼ぎの地から安定した生活の町になってきたということの反映であろう。そして幕末ごろ、男性と女性の数はほゞ同数に達している。そして慶応三年(一八六七)九月には〇・八%ではあるが、女性が男性をうわまわり、同時に幕府は亡んでいる。

第22表 江戸における女子人口の比率
年代 女子人口の百分比
享保7年(1722)4月 35.27
享保10年(1725)4月 34.99
元文2年(1737) 42.89
延享3年(1746)4月 39.82
寛政10年(1798)5月 42.50
天保3年(1832) 45.47
天保14年(1843) 47.11
安政元年(1854)4月 48.74
万延元年(1860)4月 49.24
慶応3年(1867)9月 50.82

 

 正保および元禄の国絵図に、猟師町のあたりに、遠浅のところ二四〇間余、潮干二一〇間余とあるように砂洲が海中まで遠く出ており、目黒川の流入もあってこの土地は海苔の養殖に適し、また近海ものの小魚が集まってきて漁業にも適していた。

 海苔のほかに、芝海老・コチ・シラウヲ・イシモチ・サヨリ・スハシリ・イカ・ホシヒラメ・サハラ・ナマコ・キス・クロダイ・アカエイ・サバ・フグ・クルマエビ・アナゴ・アイナメ・マコ・モウヲ・アラサ・ウミガニ・ハゼ・サメなど、いわゆる江戸前(えどまえ)の近海魚が多量にとれ 宿内境橋あたりに毎日鮮魚市がたって、その繁昌は今日では考えられぬほどのものであった。

 またこの品川沖は舟が江戸に入る最後の地点にある舟休場で、沖の一〇町から一里ほどの海面に繋船場があって、いつもここに全国津々浦々からやってきた船が、船がかりしており、そのにぎわいも大変なものであった。諸国から商品を積んでやってきた廻船は、一応品川沖に船をつないでおいて、使を江戸に走らせ、相場がよいと思えば江戸にまわって荷物を水あげし、悪いと思えばそのまま品川沖で値上がりを待っているのが常だったらしく、江戸の物価政策に力を入れた将軍吉宗は、風待ちなどと称して、廻船が品川沖に繋船して、相場を見合わすことを禁止している。


第124図 荒神様(昔)