目黒川より南側、境橋より妙国寺門前にいたる四町二〇間余の間、東海道の両側に並ぶ町を中心としたものをいう。天王横町・一町目・二町目・後地町・御蔵山・南馬場町・三町目・四町目・三軒家町・広町耕地・三ッ木耕地・三竹耕地・根河原耕地・株木耕地・芝ノ前・大崎耕地・池下耕地・石地耕地・浅間台・権現台・苗木原という二一の小名からなっている。このうち三軒家町までは町地で、広町耕地以下は耕地である。
ただしこのなかに本栄寺・願行寺・長徳寺・海蔵寺・海雲寺・海晏寺・妙国寺・貴船社などの門前町屋および島津筑後守忠徹抱屋敷などが入まじって、かなり複雑な様相を呈している。文政十一年段階で五二七戸、このうちに脇本陣一軒・中旅籠屋一九・小旅籠屋一六があり、また自身番屋一と床番屋五があった。
南品川宿内にはまた貫目改所・問屋場・物揚場など特殊な施設があった。
貫目改所は街道を通行する荷物の貫目(重さ)を改めるところで、正徳二年(一七一二)に東海道の宿のうち、品川宿・府中宿・草津宿の三ヵ所に設けられたもので、品川宿の場合、南北両品川にあったが、文政六年(一八二三)に北品川一つにしぼった。代官所の手代がここに住みついて仕事に当たった。貫目改所の建坪は三五坪二合五勺であった。
問屋場は宿駅の人馬逓送の仕事を司るところで、百人の人夫と百匹の駅馬を用意し、川崎宿または日本橋に人馬を逓送した。貫目改所と同様、はじめは南北両品川にあったが、文政六年に貫目改所と同様に南品川に統一した。貫目改所の地続きにあり、建物の大きさは二六坪余であった。
物揚場というのは、ここが港場であるため船に荷物を積おろしをする場をいい、その主なものは一つは目黒川岸一町目境橋のかたわらにある長さ四間半、幅一二間ほどのところで、ここからは品川近郷の年貢米が船積みされ、浅草御蔵に海上輸送された。また一町目の海岸に長さ一間半、幅一丈ほどのものがあり、房総より魚を江戸に送るとき、風波があって直接江戸送りできぬときに、ここから陸あげされた。そのほか一町目・二町目・三町目堺・四町目中ほどの海岸に長さ一間半より二間、幅八尺より二間半ほどの物揚場があった。