南品川猟師町

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南品川宿一町目から目黒川にそって海中につき出ている出崎の部分をいう。俗に州崎といっているところで、南北に三町二〇間余、東西に二〇間ほどの細長いところで、北品川の方にむかって大きく曲折している。石高九石三斗六升六合七勺、この反別九段三畝二〇歩である。この土地はもと目黒川下流の寄洲にできた兜島と呼ぶ無人の洲であった。明暦元年(一六五五)に朝鮮人来聘のとき、いまの南品川宿三町目に住んでいた漁民に、宿場なみの伝馬役を申しつけたところ辞退したので、この寄洲に移されたのだという。このときよりもっぱら漁業に従事し、御菜の御用および浦役をつとめて、宿役にはあずからぬこととなった。御菜の御用とは、金杉町・芝町・大井御林町・羽田猟師町・生麦村・新宿村・神奈川猟師町とこの品川猟師町とで、江戸城の御菜肴を上納してきたもので、寛政四年(一七九二)より金納化され、当町分は永四貫二三七文であった。浦役というのは文政十一年(一八二八)当時八五艘あった猟船から納める船役銭永六〇〇文と、御城米積送船が風波に遭って難破したときとか、流人船がでるときとか、などにここから船を出して助成をしたり、番をしたりすることをいう。

 このほか町内には高札場があって浦高札四枚が建てられていた。浦高札四枚とは正徳元年(一七一一)のものと、同二年・同四年二月および十一月のものであった。

 また〝御上り場〟といって、将軍放鷹のときの船着場と、長さ二間、幅一間の物揚場と、長さ八〇間、横一三間、広さにして三反四畝二〇歩の網干場とがあった。