猟師町の網干場の北の海中にできた寄洲を新田に築立ててできたところ。その先端に弁天社と鯨塚とがある。この利田新地の成立については別の所で詳細に記すので、ここでは省略する。
現在利田新地は、その先に台場が築かれ(現台場小学校用地)、この台場との間にあった堀割も埋められて地続きとなり(この堀の部分が現在小学校前を北に走る道になっている)、さらに台場の先も埋立てられ、また利田新地と北品川をへだてていた目黒川も改修工事のため今は小さな舟入り(第一二六図)を残すのみとなって、ほとんどその面影を残していない。しかし広重の江戸百景のなかに「品川洲崎図」としてえがかれている弁天社は今も残っており、そのかたわらに鯨塚も残されている。
この鯨塚は大井御林町の鯨塚とはまた別のものである。寛政十年(一七九八)五月一日の夜は暴風雨であったが、この嵐にまぎれて東京湾にいりこんできた大鯨(長さ九間一尺、高さ六尺)を品川の漁夫たちが生けどった。その報告をうけた将軍家斉(十一代)は浜御殿にまわしておくように命じ、四日その見物に出かけた。
このとき将軍は
うちよする浪は御浜の
おにはぞと
くじらは潮をふくはうち海
という狂歌などをつくって大変上機嫌であった(『徳川実紀』)。この鯨が地もとに払下げられ、のちその骨がうめられているのが利田新地の鯨塚である。ただしこの塚の位置は、最初のものとは若干ちがっているようである。