北品川宿三町目の北から、八ッ山の堺に至るまでの東海道ぞいの長五町二〇間余の町並をいう。高三〇石三斗三升三合、この反別三町三反七畝一歩で、すべて屋敷地で田畑はない。一町目・大横町・二町目・鳥屋横町・三町目の五つの小名よりなる。
この町は、昔は北品川善福寺門前・法善寺門前および新町という茶屋町で、酒食の商いをしていたが、毎年宿場の課役を一万二〇〇〇人分も勤めていたので次第に困窮し、享保年間、本宿に加わり旅宿をおくことを願い出、享保七年(一七二二)十二月にその許可がおりたのを機会に、町名を北品川歩行新宿とあらため、品川宿一〇〇人分の徒行役のうち、八五人分を勤めることになった。
文政十一年段階で三八八戸、うち脇本陣一・広間旅籠屋七・中旅籠屋二〇で、ほかに自身番二つ・床番屋三があった。また三町目中ほど・二町目中ほどおよび一町目と二町目の境海岸に、おのおの長さ三三間・幅二間、長さ二五間・幅二間、長さ二五間・幅二間五尺の物揚場があった。