御殿山

401 ~ 407

北品川宿の北方にある小高い丘陵で、面積にして約四町歩ほどの山林を御殿山という。この土地は享保以降は桜の名所として有名で、江戸および近在から春になると花見の客がおしよせたものであり、また幕末に品川御台場を築くときには、ここから土を取った。

 この土地は、古くは江戸の開祖といわれる太田道灌の居舘があったところといわれているが、その真偽のほどはわからない。もしこの説が正しいとすれば、御殿山の御殿は道灌の居舘をさすことになるが、普通は江戸時代のはじめころ、ここに幕府の御殿があって、将軍が狩猟に出たときの休息所につかい、また西国大名が参勤交替で江戸に来たとき、将軍がそれを送迎するためにつかったことからはじまった名だといわれている。

 品川の最南端にある妙国寺の記録によると、元和六年(一六二〇)三月十三日から寛永十二年(一六三五)十月二日までの約一六ヵ年の間に、同寺へ将軍が四四度御成りになっている。その日時をあげるとつぎのようである。

 第一回目   元和六年三月十三日

 第二回目   同年十月二十六日

 第三回目   元和八年一月十九日

 第四回目   同年二月二十三日

 第五回目   同年三月十四日

 第六回目   同年六月二十九日

 第七回目   同年十一月四日

 第八回目   同年同月二十日

 第九回目   元和九年三月二十三日

 第一〇回目  同年十月二十五日

 第一一回目  同年同月二十九日

 第一二回目  寛永元年一月十四日

 第一三回目  同年同月二十一日

 第一四回目  同年二月二十日

 第一五回目  同年十月九日

 第一六回目  同年同月二十五日

 第一七回目  同年十一月七日

 第一八回目  同年十二月八日

 第一九回目  寛永二年一月十四日

 第二〇回目  寛永四年十月十九日

 第二一回目  同年十一月十二日

 第二二回目  同年十二月七日

 第二三回目  寛永五年一月十日

 第二四回目  同年二月六日

 第二五回目  寛永六年一月十一日

 第二六回目  同年九月十六日

 第二七回目  同年十月三日

 第二八回目  同年十一月一日

 第二九回目  同年同月十一日

 第三〇回目  同年同月二十九日

 第三一回目  同年同月二日

 第三二回目  寛永七年二月三日

 第三三回目  同年同月十八日

 第三四回目  同年八月二十六日

 第三五回目  同年九月十八日

 第三六回目  同年十月十八日

 第三七回目  同年同月二十五日

 第三八回目  同年十一月十一日

 第三九回目  同年同月二十日

 第四〇回目  同年十二月二十日

 第四一回目  寛永八年一月二十五日

 第四二回目  同年二月五日

 第四三回目  寛永十一年十一月八日

 第四四回目  寛永十二年十月二日

 以上の御成が将軍の妙国寺にたいする崇敬と無関係とはいえないだろう。しかし寛永十二年を境として御成りが全くなくなっているということは、やはり信仰の問題だけからは説明できないことを示している。御成りの最後の年である寛永十二年といえば三代将軍家光によって武家諸法度が出され、その第二条で、諸大名の参勤交替が制度化され義務化された年であるので、それまで西国大名の参勤の労をねぎらって品川のはずれまでこれを送迎し、そのついでに妙国寺に立寄っていた将軍が、以後それをしなくなったことを、この記録は示しているのだと考えられる。

 品川御殿山の御殿は、参勤交替の制が確立し、将軍の西国大名にたいする送迎がなくなった後も、将軍家の行事などに利用されていたらしく、寛永十七年九月十六日に、将軍が毛利秀元に命じて、ここで大規模な茶会をひらいたことが『徳川実紀』に見えている。このときの茶会は大変盛大なもので、将軍家光をはじめ御三家・幕府の老中以下の重臣がつらなり、茶室その他を新築し、金銀をちりばめた膳具だけでも五〇〇人分も用意したと記されている。このとき東海寺にいた僧沢庵も召されて酒をたまわり、将軍から一首つくるよう所望されて

  夕ぐれをおしみおしまじ

         木の間より

     はやさしのぼる海こしの月

という歌をつくっている。

 この品川御殿は、その後破損したのを貞享二年(一六八五)に修理して、もとの形になっていたが、元禄十五年(一七〇二)二月十一日に四谷塩町から出た火が青山・麻布・芝浦・品川と南にもえひろがって、品川妙国寺の五重塔とともに、この御殿も焼いてしまった。以後、幕府はここに御殿をつくることをせず、御殿山は桜の名所として江戸市民にしたしまれるようになった。


第128図 沢庵筆軸(東海禅寺蔵)


第129図 沢庵筆(東海禅寺蔵)

 文政七年(一八二四)九月の「宿差出明細帳写」には

一、御殿山 御林三町八反五畝二九歩

  木数 千四百拾五本

        桜  六百本

    内   松  五本

        櫨  六拾本

        雑木 七百五拾本

とある。また天保十四年(一八四三)三月の「品川宿宿方明細書上帳」には

 御殿山 御林三町八反五畝弐拾九歩

   木数 五百五拾本

       桜四百拾壱本

       雑木百三拾壱本

    内  松三本

       杉三本

       槻二本

とある。

 桜は寛文年間(寛文元年は一六六一)に吉野山より移植したもので、「江戸名所図会」にも「此所は海に臨める丘山にして、数千歩の芝生たり。ことさら寛文のころ、和州吉野山の桜の苗を植ゑさせたまひ、春時爛漫としてもっとも壮観たり。弥生(やよい)の花盛りには、雲とまがひ雪と乱れて、花の香は遠く浦風に吹き送られて、磯菜つむ海人の袂をおそう。樽の前に酔を進むる春風は枝を鳴さず。鶯のさえずりも太平を奏するににたり」と書いている。

 櫨(はぜ)は江戸時代の高級燈火であるローソクの原料であるが、享保三年(一七一八)に殖産興業政策の一環として幕命によって植えられたものであるが、秋に紅葉してたいへん美しいので、春の桜とならんで御殿山の名をいっそうたかめた。なおここには享保六年に出された「御林内諸木の枝を折採者有之歟、又者狼藉者有之者捕え、召連可訴もの也(この林で木の枝を折ったり、乱暴するものがあったら捕らえておいて訴え出るように)」という高札が三枚建てられていた。また文政九年の書上に、櫨が六〇本あるのが、天保十四年のものには全然見られないのは、この間櫨がなくなったからではなく、天保七年に家城信七郎というものが、永二五〇文の冥加金で御殿山内に櫨絞所をつくり、櫨はその管理に移ったからであろう。