利田(かがた)新地は江戸時代当品川地区ではもっとも新しく開発された土地である。検地高入は天保五年(一八三四)四月と大分おくれているが、開発にとりかかったのは、それより大分古い天明年間のことである。
江戸時代は、わが国の歴史を通してみても、各時代中もっとも新規土地開発の多くおこなわれた時代で、それらを総称して新田開発と呼んでいる。
さてこの新田開発にはいちどに何町歩・何十町歩といった大規模の耕地を造り出すものと(=普通このようなものを江戸時代には新田開発と呼んでいる)、百姓たちが自分の持地の周辺の未耕地を、一鍬々々ほりおこして耕地にする切添(きりそえ)との、二つに分けることができる。また開発主体の差によって藩みずからが開発にのりだす藩営新田と土蒙開発新田・町人請負新田などと区別することがある。また主として開発の技術的な差によって、長途の用水路を荒野に引いてきて開発するもの、大河川の川敷やデルタ下流の葦生地などに堤塘を築いて造るもの、湖沼などの水を排水して造るものなど、実にさまざまなものがある。それらのなかで特に変わったものとして、大河川河口部の海岸の寄洲(よりす)に核様のものをつくって、それを軸に流出してくる砂土を集めて新田をつくる方法がある。池上太郎左衛門が川崎の地に、玉川の流出砂土をもとに作った池上新田がその代表的なものであるが、利田新地の築立も技術的にはこの池上新田と同様である。地理的に川崎の池上新田に近いこと、また両者の着工年代も近いところから、利田新地の開発は池上新田に誘発されて始まった可能性が強い。