池上新田というのは、武州久良岐郡大師河原(今の川崎市大師河原)の池上太郎左衛門幸豊という人が、玉川下流の砂洲がつき出ているところに、核様のものをつくり、それに海流がおしつけてくる砂を集めてつくる寄洲方式で、約百町歩ほどの新田をつくろうと延享三年(一七四六)幕府に願い出た。しかし〝寄洲方式〟というこの方法は、従来の新田開発には見られない方式であったため、幕府はその成功を危ぶんで容易に許可しなかった。しかし太郎左衛門はそれにも屈せず運動を続けた結果、宝暦二年(一七五二)になって試験的に一五町歩ほどを開発してみるようにという許可が出、苦心労苦の末、同九年にその作業を終わり、同十二年春に検地高二三石余(反別一四町余)の新田造りに成功した。これが今日の池上新田である。
この成功により幕府の信任を得た太郎左衛門は、宝暦十三年に、荏原郡糀谷村下より久良岐郡戸部村下までの海辺新開地見立を、幕府から申し付けられて、
武州橘樹郡稲荷新田 同大師河原村 同大嶋村
同渡田村 同汐田村 同春木町 芝生村
など七ヵ所で総反別二五三町歩余の開発計画をたてている。なおこの計画は全部が完成したわけではない。また明和元年(一七六四)には橘樹郡帷子村より、多摩郡八王子までの新開見立方を幕府に命ぜられ、色々と尽力するところがあった。なおかれは砂糖製造のことをも思いたち、苦心の末その製造に成功、幕命により関東一円にこれをひろめている。