事のおこりは明和九年(一七七二)九月に、南品川猟師町年寄惣左衛門と百姓治兵衛の両人が、猟師町地先の目黒川が海に入るところに、寄洲がおよそ五、〇〇〇坪ほどできているのに目をつけて、これを新地にすべく奉行所まで願い出たことにはじまる。もっとも願書によると、この寄洲を新田にしたらどうかと勘定所役人からすすめられていたが、それまで誰も願い出るものがなかったのだとある。
さてこの両人の願書をみると、
(イ) この土地は目黒川が海におし出し、それに波がうち寄せて砂がたまってできた寄洲なので、少々ばかり土砂をかきあげて陸地を造っても、大汐のときは汐をかぶり、また目黒川が増水したときも水をかぶり、そのうえ土質は小さい砂利のまじった砂地であるので、作物の根付きも悪く、やっと根付いたとしても実入りは悪くてとうてい田地になるどころではない。そのため最初から耕地を造るなどのことは考えず、上土をおくなどできるだけ丈夫につくって、これを家作地とし、ここに猟師や小商人などを置きたい。
(ロ) 目黒川は近ごろことのほか埋まり、とくに河水が海にそそぐ吐口のところは、川の内側が寄洲になって川幅が狭くなり、二〇間ほどのところは川幅がようやく三間ほどというひどさで、水はけが悪いうえに、前々から川の中まで乗込んでいた御菜御用船、そのほかの船も通行ができないようになっていて、どうしても公費で浚え普請をしなくてはならぬ状態にある。もし自分たちの願いを聞いてくれれば、この埋まっている土砂を掘おこして、新地築立ての土に使うので、新地ができるうえに河浚えもできて、目黒川の水はけがよくなるうえ、御城米を運ぶための艀(はしけ)(この品川区一帯の年貢米は品川から船積みされ、海上を通って浅草の米蔵に納められていた)、御菜御用船、その他の舟が目黒川を通行できるようになって、まことに結構なことのはずである。
(ハ) 新地築立てが終わったあとも、とくに南側などは波が高くて土地がけずり取られるので、猟師町から河口までの目黒川の積土を竣って、その土でこわれたところを補うとともに、残土があればそれで新地の築増しをしてゆきたい。またできた新地は、猟師町の網干場をぬけて品川宿の方へ出る道が一本しかなくて、それでは往還までの道がまわり道になるうえ、万一火事でもあったときに逃げ道がないので、北品川宿の横町につながるように、目黒川に橋をかけたい。もっともそのときは舟の往来の障りにならぬように充分注意をする。
(ニ) この計画は新地築立・波除工事・目黒川河口の川浚え・架橋等々とたいへんお金がかかるうえ、その後もまだ色々と入用の多い仕事である。この品川沖には昔から諸国廻船が停泊し、その荷物を江戸の問屋まで送るのに艀下船を利用していた。その艀として、廻船の船頭は当地で相対で、茶船壱艘を銀一三匁ほどで雇っていたが、もし自分たちに艀下船雇受差配役を申し付けてくれるなら廻船方の都合にもなり、また自分たちは余力をもって目黒川下流の浚普請も自力でやり、そのうえ築立新地の地子(ぢじ)および艀下船雇受差配運上として、年々二〇両の金を御上に差出します。そのうえ今までは廻船が品川沖に着き、船頭・水主(かこ)などが江戸の問屋のところえ行って人数が少なくなっているのを狙って、海賊がおしよせることが多かったが、願い通り艀下船雇受差配をわれわれに命ぜられれば、われわれの手で番船を雇って、昼夜わかたず二艘ずつが見廻りをもするので、以前のように海賊に荒らされることもなく、やって来る廻船も多くなって、品川宿はますます繁昌することになるであろう、と記している。これによると、この新田開発は、一般のそれのように耕地を造出することを意図していたのではなく、最初から町地の造出をねらっていたこと。また工事方法としては埋立用の土砂に、目黒川下流の推積土を予定しているが、その副産物としてできる目黒川の川浚普請を幕府に高く売りつけて、その代償として品川沖に停泊する廻船の荷を、江戸の問屋まで運ぶ艀業者を支配する、艀下船雇受差配という役を幕府に免許してもらい、支配艀業者から課徴金を取立てることを考えていたことなど(もっとも願人惣左衛門と治兵衛は、深川大工町の矢野利右衛門を金主として独自に用意はしていたようである)、普通の新田開発とは異なっている点が多い。