この願書を受取った幕府は、利害関係者を呼出すなどして色々と調査を重ねた結果、翌年の安永二年(一七七三)閏三月になって願人を呼出して、その結果を申し渡した。それによると艀下船雇受差配として、艀業者から一艘に銀一三匁五分の艀賃から五分だけ口銭として受取って、その金を資金として目黒川の川浚えなどをするという願人たちの案は、艀業者たちは目黒川の河口が、今のままでも一向にかまわないなど、色々と反対があるので、そのような収入をあてにせず、自分の資金のみで開発するというのであれば格別だが、そうでなければ許可するわけにはゆかないということであった。
この計画には新田開発を口実に、艀下船雇受差配役という利権をあさろうというねらいがあったような気もするが、それがどうも許されそうもないとわかると、惣左衛門が前年の十二月段階で願人から離脱、また出資者に予定されていた深川の利右衛門も、役所から不許可になると同時に離れてしまった。あとに残ったのは治兵衛一人であるが、かれはあらたに武州大里郡甲山村名主を金主とし、同年六月十五日に、こんどは治兵衛一人で同地の築立てを願い出た。この願書では前のように、艀下船雇受差配役となって、艀業者から口銭を取るという条件は撒回して、そのかわり地代金の免除と三ヵ年の鍬下年季(くわしたねんき)を許されるようにという条件をつけている。地代金というのは敷金・権利金のようなもので、新田を開発する権利代として、土地の広さに応じて領主に支払う金であり、鍬下年季とは、新開地はすぐには熟田畑とならず、その間収穫が少いからというので、正規の年貢米を支払わず、無税かごく少量の米金ですます期間をいい、ともに庶民が新田開発をおこなう場合にとる慣用事である。
これをもとに役所といろいろ折衝した結果、翌安永三年五月十三日に認可がおりたが、それによると願人治兵衛、金主は江戸中橋桶町弐丁目兵助、それに証人として武州多摩郡中野村万右衛門をたて、
(イ) 開発反別は約壱町歩、(ロ) 地代金は一〇両、これは本年中に全額上納、(ハ) 鍬下年季は三年で、四年目に検地をうけて高入れとし、以後相応の年貢を納める。(ニ) 開発ができあがるまで、その保証として証人中野村万右衛門の持地八町歩を質地として入れておく、というのであり、また新地から北品川宿へ掛渡すはずになっている橋の規模は、同時に出された仕様書によると次のようであった。
一、橋の長さ 弐拾間余
一、橋幅 弐間
一、水上満水時の明き 七尺
なお、この橋の架設費用であるが文政十一年の架設工事の時をみると
一、金五拾七両。杭木・梁・欄干・鋪板など材料として使用する木材代金一切
一、拾三両壱分。高欄つなぎ鉄物、その他釘鉄など鉄物一切
一、弐拾五両弐朱。大工・木挽の手間賃と飯米代一切
一、拾弐両弐分。橋台・土留石垣などの石工手間賃・石運賃一切
〆 金百七両三分弐朱
という金額になっている。