この五年の間に願人である治兵衛が不幸にして病死し、この仕事をどうするかゞ大分問題になったようであるが、結局南品川宿の名主である吉左衛門が、問屋の善兵衛と組んで仕事を継続することになった。利田新地というのは、この吉左衛門の姓、利田を取ってつけたものである。
治兵衛病死のあとをうけて、築立工事継続をひきうけた南品川宿の名主吉左衛門と問屋善兵衛の二人は、寛政六年八月に、先願人がこれまでたびたび年延べを願いながら今に築立が完成しないのは、「つまるところ手入が充分に行なわれないまま、いいかげんにほっておいたためだとも聞いているので、自分たちはきっと情出して努力するから」といま一度鍬下年季五ヵ年の年延べを願い出ている。寛政六年から五ヵ年というと寛政十一年に当たるが、実際やってみるとこれもうまくゆかなかったらしく、寛政十一年正月二十八日に、前々同様の理由で、今度は文化五年までの十ヵ年の年延べを願い出ている。
その年延べ最終年の文化五年に願人の吉左衛門から、南品川猟師町の名主・年寄・百姓たちあて、先願人が約束して取り替わしていた証文が享和三年(一八〇三)の津浪で流失してしまっているので、という理由で「新地築立を行なうと猟師町の網干場が潰れるので、一三間幅の網干場をあらたに猟師町の地先に築いて渡します。もし万一その開発許可がおりなかったときは、自分が築いた新地のなかから、相当する土地を引渡します」という一札を入れているところをみると、まだ開発は予定通りには進んでいないが、さりとて築立を断念しているというわけでもなかったようである。しかしその後も開発はあまり進まぬままに願人の吉左衛門は文政二年(一八一九)に死亡、その仕事はその子の吉左衛門に引きつがれた。子の吉左衛門も父の志をついで色々努力するが、どうも当時の技術では最初の計画である一町歩を築立するのはどうも無理があったらしく、結局総面積が四反ほどになった天保五年(一八三四)五月になって、これ以上何度も年延べを願うのも心苦しいので、この段階で一応検地を受けて高入れしたいと願出ている。もはやこれ以上の努力をしても無駄であるとの判断に立っていたのであろう。