この願いを容れて翌天保五年四月に検地をおこない、八筆都合三反八畝二一歩、高三石八斗七升の屋敷地が利田新地として生まれ、同時に四畝六歩の土地が弁天社地として高から除外されている(この時の検地帳は『資料編』に収められている)(資一二〇号)。
安政元年(一八五四)にペリー浦賀来航などに刺激された幕府は、江戸城を守るため品川御殿山下に台場(だいば)を築くことになるが、それが利田新地の地先に位置したため、それを囲う堀をつくるための土置場と、台場へくり出す兵員の通行道を利田新地のうちにつくったので、安政三年十二月に再度検地をおこない、前記公用地を除いた十一筆、反別にして弐反四畝九歩、高弐石四斗三升が利田新地としてうち出されている。
このように利田新地の土地は当初計画した面積よりも、また天保段階に完成したものよりも、さらに減少するわけであるが、明治維新となり地租改正に伴う地券交付願をみると、十九筆で合計五反九畝五歩、高にして五石九斗壱升六合七勺となっている。このあたりが案外正確な実面積であったのであろう。
さてこの段階で願人吉左衛門側では、新地築立によって潰れた猟師町の網干場の代地については、約束通り新地築立が完成した段階であらためて築立をするというつもりであったが、猟師町側は、新地築立が最初の計画通り一町歩まではまだできていないにせよ、検地を請けるというのは一つの区切りであるので、この段階で約束の網干場を作ってほしいといってきかなかった。そのため色々と折衝をしたが、結局天保五年三月になって網干場を造って渡す代償として、吉左衛門から三〇両のお金を渡すこととし、その渡しかたとしては内金二〇両を即金で渡し、残金一〇両は来年五月十日までに渡すということで示談が成立している。