下大崎村

422 ~ 424

下大崎村は上大崎村の東にあり、東より北へは白金村・北品川宿・品川台町・今里村・上大崎村に接し、南は谷山村・桐ケ谷村・居木橋村、西は上大崎村・谷山村に接する東西・南北ともにおよそ五町ほどの村である。上大崎村および品川宿との堺は入組んでいて線を引きにくいほどである。

 家数は文政十一年(一八二八)成立の『新編武蔵風土記稿』には三三軒、嘉永三年(一八五〇)の「村明細帳」には四八軒、人口二二〇人(うち男一一七人)、安政二年(一八五五)の書上げには四九軒とある。

 村高は元禄八年(一六九五)織田越前守の検地で三二石三斗六升九合で、この反別は三三町四反四畝九歩、うち田は一三町八反七畝歩余、畑は一九町五反六畝歩余となっており、関東農村全体と較べても、また品川区域村々とくらべても水田比率の高い村である。「当村は目黒川にそった村で、家のある部分は平地であり、北東の方が少々小高い丘になっています」と村明細帳に書いているように、目黒川の下流の北側にひろがる低地部分にある村なので、このように田地が多いのであろう。なお田のうち七反八畝一五歩が天水(てんすい)田といって、独自の灌排水路をもたず、雨水をためて稲作をする田地になっている。天水田は関東地方の台地が平地と接するあたりにできた谷合いの、たえずじめじめした低湿地に多くみられ、江戸時代の耕地形態としては、もっともおくれたまた生産力も低いものとされている。残りの一三町九畝一三歩は三田用水掛りの土地となっている。

 水田は嘉永三年(一八五〇)段階でまだ一毛作(いちもおさく)であり、作付けする稲も早稲(わせ)・中稲(なかて)はほとんどなく晩稲(おくて)が主である。畑地の方は大麦・小麦・粟・稗・大豆・小豆・胡麻・そば・菜種・木綿などのほか、江戸に近接しているので茄子・大根・冬菜・芋などを作って江戸の町に売出している。耕作にあたっての肥料は、干鰯(ほしか)・下肥(しもごえ)・刈草・糠などが中心で、また下水を汲んで田畑にかけるなどもしている。

 この村の特徴の一つは村内に武家の抱屋敷が多いことである。嘉永三年段階で主なものをあげると

 二一、三一六坪    松平陸奥守

 一一、五二八坪    松平内蔵頭

 一四、九八二坪    松平出羽守

  四、九〇〇坪    松平兵部

    一五七坪    松平内匠頭

    一六一坪    内藤熊四郎

などである。武家の抱地は目黒川北側の台地にいちじるしく多く、川の南に渡るとその数も非常に少なくなっている。