荏原郡の東境にある村で、東は居木橋・下大崎・谷山村に、南は谷山村・戸越村、西は下目黒村、北は上大崎村に接し、村の東を相州街道が通っている。幡ケ谷・幡ケ谷上・花ケ谷・上の池・座頭窪・禿山・山伏塚の七つの小名よりなっている。
元禄十年(一六九七)の武蔵国総検地によると桐ケ谷村の土地は
上田 壱町六反壱畝拾歩
中田 四町六反拾七歩
下田 五町八反壱畝廿壱歩
下〻田 四反八畝廿壱歩
上畑 壱町参反七畝拾九歩
中畑 四町七反五畝廿歩
下畑 拾八町五反壱畝拾弐歩
下〻畑 壱町参反六畝廿五歩
屋敷 七町五畝拾九歩
田畑屋敷計 四拾五町五反九畝拾四歩
松雑木林 弐反五畝拾六歩
萱蘆野 六反壱畝弐歩
藪 参反八畝廿五歩
芝原 弐町七反八畝拾壱歩
溜池 二反七畝廿二歩
寺社除地 八反五畝五歩
石高 三〇六石一斗一升五合
となっている(『大崎町誌』)。これに享保十七年に新田を高入れして、都合三六七石三斗五升となり、幕末まで及んでいる。
江戸日本橋まで二里半(一〇キロメートル)、文政十一年(一八二八)の『新編武蔵風土記稿』編さん当時は家数は六〇軒、安政二年(一八五五)の書上げは五六軒となっている。
村の境を目黒川が流れ、村内には氷川神社・八幡神社・諏訪神社・第六天神社の諸社と、安楽寺・霊源寺・安養院の諸寺があった。
弘化二年九月の「沿革御調ニ付品川領宿村書上控」によると、名主はおらずに年寄役の吉右衛門が村を代表している。またこの史料によると村の始まりについては「当村起立相知不申」とあるが、しかし貞応二年(一二二三)六月二十日、鎌倉幕府執権北条義時が、品川清経を父清実の所領四ヵ所の地頭職に補したときの〝安堵下知状〟に「一所 武蔵国南品川郷内桐井村」とある桐井が、江戸時代の桐ケ谷村に当たるとの説があり、これが真実とすれば鎌倉時代にすでに体裁をととのえていた古い村ということになる(資五号)。
寛政十一年(一七九九)の「村方明細書上帳」(『大崎町誌』)によると、
一、当村の田畑共、北下にて田方は水持悪敷、畑方は高低多く有之、其上土性の義は赤土に少々黒土交りにて御座候、一躰村内田畑屋敷入込、木森茂り候故、打開き候広場無御座候、
一、御年貢米津出しの儀は、同郡品川浦迄弐拾五町の間、人馬にて持送り船積仕り、品川浦より江戸浅草御蔵迄、海上共三里余御座候、
一、当村之儀、米・麦・稗・粟之類作候、米は中手・晩稲を多く作り申候、其外地所に応じ候野菜物等作り、近町迄荷出し売捌申候、
とあり、家数六〇軒、男一〇六人、女九七人となっている。ここにあるように村内に田畑屋敷が入込み森林などが生い茂っているというのは、品川宿を除いた当区村々の一般的情景であり、農作業も米・麦・稗・粟などを中心に、また地所に応じて野菜などを作り、近くの町(江戸町々)に出荷するというのも、また共通した事情であったろう。