桐ケ谷といえば現在火葬場で有名だが、この火葬場も歴史をたどると江戸時代まで至るようである。『新編武蔵風土記稿』の桐ケ谷村の項を見ると霊源寺という寺の事が記されている。それによると当寺は境内三、五三八坪、村の東、相州街道に沿ったところにあり、浄土宗で江戸三田の長松寺の末寺である。山号は諸宗山無常院。開基霊源が寛文六年(一六六六)に死んでいるので、おそらく江戸時代初期に開かれた寺であろう。そのなかに荼毘(だび)所があることが見えており、それに「境内奥の方にあり、近郷の寺院へ送葬の輩、当寺へ送りて荼毘す」と註記されている。
わが国に、火葬の風習が伝わったのは大分古く、仏教とともに大陸から渡来して、すでに大化新政権のころに定着したようであるが、それも極く一部階級においてのみで、一般は古来の土葬によっていた。そのことは江戸時代に至っても同様で、火葬は珍しかったので、この寺は早い時期より、火葬寺として近在に有名であったのだろう。以来火葬寺としての霊源寺は、代々続いて明治に至り、明治十八年(一八八五)に寺と火葬場が分離して今日に至ったものである。霊源寺開基の最初より、火葬寺を意図して建立されたのかどうかはわからぬが、無常院という山号は如何にも火葬寺にふさわしいものである。