下蛇窪村は東方に南品川宿と大井村、西方に中延村と戸越村、南方に上蛇窪村と大井村、北方に戸越村をひかえている農村で、品川区内村々のなかで農村度のもっとも高い村の一つである。
天正十九年(一五九一)長徳寺の朱印地が村内に割られているところから、成立はかなり古いと思われるが、正確なところはわからない。寛永二十一年(一六四四)七月に検地があり、くだって寛文十一年(一六七一)八月に再検地があったが、その結果は明らかでない。元禄八年(一六九五)織田越前守の検地があり、二七七石八斗三升六合のうち、長徳寺の朱印地が二石五斗あるので、実際の村高は二七五石三斗三升六合、この反別が三七町九反二〇歩、うち五三石八斗九升八合(反別にして六町四反八畝五歩)が田、二二一石四斗三升八合(反別にして三十一町四反二畝一五歩)が畑となっている。このほか萱野が二反四畝拾六歩、藪が一反一九歩あるが総体的に見て、田二〇%、畑八〇%という、関東農村としては平均的な農村である。
つぎに戸口についてみると
万治元年(一六五八)
家数 一五軒
人数 七二人
延宝四年(一六七六)
家数 二二軒
本百姓 五軒
脇百姓 一五軒
水呑百姓 二軒
人数 一一九人
寛政十一年(一七九九)
家数 四六軒
人数 二四一人
男 一二一人
女 一二〇人
明治八年(一八七五)
家数 五七軒
人数 三一一人
男 一六八人
女 一四三人
となっている。万治と寛政とをくらべてみると家数で三倍ほどの急増をしているが、その理由は当村の水田のほとんど全部が品川用水の灌水にかかり、ほかに見るべき河川がないところから、品川用水ができた寛文年間(寛文元年は一六六一)以降に、この水を予定して田地が開発された結果と考うべきで、その作業は大体元禄八年の織田越前守の検地段階までで終わっていたのであろう。
水田は一毛作で中稲(なかて)・晩稲(おくて)が中心であり、畑地では大麦・小麦・大豆・小豆・粟・稗・蕎麦などの自家消費用作物のほか、瓜・茄子・芋・ねぎ・大根・人参など江戸の町人目当ての作物がかなりつくられている。
肥料はというと、江戸が近いために下肥(しもごえ)が中心であり、そのほかに磯草・干鰯・〆滓(しめかす)・灰・糠などが用いられている。磯草というのは海草のうちあげたような類で、多分大井・品川などの海岸でとったものであろう。干鰯(ほしか)というのは鰯をほしたもので、江戸時代でもっとも多量につかわれ、かつ速効性の強い肥料とされていたもので、九十九里浜が日本有数の産地であった。〆滓とは菜種油を絞ったあとの滓、また綿の実を絞って綿実油をとったあとの滓(かす)をいう。
村は品川宿にたいして助郷役を負っていたが、そのほかに品川東海寺の夜番として、月に六人ずつの人足を出すとともに、同寺の近辺に火事があったときは、消火駈着人足として拾六人ずつ差出す習わしであった。
この品川宿助郷・東海寺夜番・消火駈着人足は、多分品川区内村々は軽重の差はあっても、同様負担していたと考えてよいであろう。