中延村は東は上・下蛇窪村に隣り、南より西へは馬込村に接し、北は戸越・小山の二村に接した東西一二町・南北一三町余の村で飛地が多い。本村・セト原・大原・天沼・丸山・滝合の六つの小名よりなる。中延は〝なかのべ〟と読む。この村は品川区地域では最も古くから拓(ひら)けていた村の一つで、八幡神社の縁起に、文永年中(文永元年は一二六四年)に荏原左衛門義宗という人が、この地を領したという記事がある。
文政十一年(一八二八)成立の『新編武蔵風土記稿』には家数一一八軒とあり、安政二年(一八五五)の書上げには六三軒とある。村高四八六石五斗三升八合。
耕地のほとんどが陸田で水田は僅少であるが、戸越村とならんで孟宗竹が多く、筍の産地として早くから有名であった。この地方の竹は、山路竹翁が薩摩屋敷から取りよせたのが起源だといわれているが、『荏原中延史』前編には、神奈川県高田村の相沢氏は代々代官職を勤めていたが、ここに縁者の長崎奉行から孟宗竹が贈られ繁茂していたのを、相沢家の娘が、中延村の旧家鏑木家に嫁入したときに持ってきて伝えたものだとの異説をのせている。