小山村は東北に戸越村、南は中延村、西は碑文谷村に接する東西一二町、南北一二町ほどの、ほとんど高低のない平地村である。平塚・滝ノ原・南耕地の三つの小名よりなっている。
谷山村と合わせて近世初頭までは弥陀郷(みだごう)と呼ばれており、さらにそれが「和名鈔(わみょうしょう)」では御田郷(みたごう)といわれているとの説を『新編武蔵風土記稿』の編者はとっている。同稿のできた文政十一年段階で家数は六三軒、安政二年の書上げで六五軒となっている。
村高は二七四石一斗二升七合となっている。
小山村
小山村は東北に戸越村、南は中延村、西は碑文谷村に接する東西一二町、南北一二町ほどの、ほとんど高低のない平地村である。平塚・滝ノ原・南耕地の三つの小名よりなっている。
谷山村と合わせて近世初頭までは弥陀郷(みだごう)と呼ばれており、さらにそれが「和名鈔(わみょうしょう)」では御田郷(みたごう)といわれているとの説を『新編武蔵風土記稿』の編者はとっている。同稿のできた文政十一年段階で家数は六三軒、安政二年の書上げで六五軒となっている。
村高は二七四石一斗二升七合となっている。