品川宿の南に位置し、東は江戸湾に面し、西に馬込・上下蛇窪村などがあり、南は新井宿・不入斗(いりやまず)両村に続いている。東西二〇町、南北一八町の村で、東海道(往還長一九町五二間半)が南北に通っている。御林町・浜川町・三十軒家・喰違跡・上芝下芝・品川原・木村・出石・狐窪・大塚・金子原等の小名よりなる。
大井という地名は、村内光福寺境内に建仁元年(一二〇一)にほったという古井戸があり、土地の人はこれを大井と呼んだところから、その周辺の土地を大井と呼ぶようになったという説がある(『新編武蔵風土記稿』・「南浦地名考」)。このほか「南浦地名考」には、「井田の広く大なる郷なる故」大井の名がおこったとする説ものせている。またこの土地にむかし大井某というものが居住しており、その大井氏が、守護職に任じた家柄であったから、地名をも大井と呼ぶようになった、とする説、また大井ではなく大藺であって、昔この地方に荏草や藺草が一面に生い茂っていたので、大藺と呼ぶようになり、それが訛(なま)って大井となったという説もある。
ともかく大変古い土地で、古く大井郷という郷名があるが、その中心は大井村あたりであったろうと考えられている。
寛永二十一年(一六四四)に伊奈半十郎の検地があり、それによると
上田 拾弐町四反六畝壱歩
中田 弐拾壱町六反七畝拾八歩
下田 弐拾六町壱反弐畝拾歩
上畑 四拾弐町四反壱畝廿弐歩
下畑 七拾町八反九畝拾六歩
屋敷 弐町八反四畝拾歩
合 弐百拾参町六反一畝二拾六歩(数字合わず『大井町誌』のまま)
此石高 千百石余
となっている(『大井町誌』)しかしそれ以前の村高は、田畑屋敷合 一一九町三反七畝一四歩 此高 六七四石六斗九升弐合ということになっていたようである。これがこの地方でいう長谷川縄によるものであろうが、その詳細はわからない。長谷川縄というのは『新編武土蔵風土記稿』に出てくる言葉で、この地の地頭長谷川豊前守という者が、天正八年(一五八〇)ころこの土地を検地したが、其縄が大変きつかったため村民はその貢租にたえきれず、暴政の張本として〝長谷川縄〟を唱えたのだという。当時この村は戸数一六戸の小村落であったから、強い打ち出しであったのかも知れないが、今ではその強弱についての判定の材料を持たない。
寛永の検地の次は元禄一〇年(一六九七)十二月の検地である。これは織田越前守による関東総検地の一環としておこなわれたもので、
上田 八町四反壱畝拾五歩
中田 拾参町七反五畝弐拾歩
下田 廿五町八反五畝拾歩
下〻田 七町四反四畝拾参歩
田合 五拾五町四反六畝廿八歩
上畑 弐拾参町六反五畝廿五歩
中畑 参拾五町弐反参畝廿四歩
下畑 四拾七町四反四畝八歩
下〻畑 拾町九反五畝壱歩
屋敷 弐拾四町壱反六畝四歩
畑屋敷合 百四拾壱町四反五畝五歩
田畑屋敷合 百九拾六町九反二畝三歩
高都合 千六百参拾四石七升五合
ほかに
松杉雑木林 四町四反九畝八歩
藪 参町七反五畝廿六歩
萱芦野 壱町八反五畝壱歩
芝原 弐町五反拾弐歩
雑木御林 弐町七畝廿六歩
そのほか常林寺ほか七ヶ寺の除地と、村中持の溜井・死馬捨場・獄門場がある。
その後少しずつ新田をくり入れて文化十一年(一八一四)の年貢割付状には村高一、六五五石一五一四となっている。
さてこのなかの獄門場、壱反二畝歩というのが有名な鈴ヶ森の刑場である。
この大井村は村内を東海道が貫通し、また東側が海に面しているため、本来は農村でありながら、街道村および漁村としての性格を多分に持っている。すなわち享和四年(一八〇四)一月につくられた「明細帳之内増減書上帳」によると
家数 五百五拾五軒
人数 二千五百拾九人
内 男 千三百八人
女 千二百十一人
となって、もちろんその大部分が農業に従事する農民であるが、そのほかに
医師 三人
道心 十二人
比丘尼 三人
当山修験 一人
瞽女 二人
定商売家 七人
茶水商 五人
辻持出茶水等小商い 二人
かつぎ商い 一人
杣 六人
桶工 一人
畳屋 一人
船大工 一人
農具鍛冶 三人
紺屋 一人
箱細工并麦葦細工小売 二人
豆腐屋 二人
湯屋 三人
髪結 六人
肴仲買 八人
船持 十人
花屋 二人
質屋并古着屋 十二人
の農外住民がいることを記している。これらの諸業種のうち、多くが街道ぞいの村に属することに由来するが、船大工・肴仲買・船持などは大井村が海村であることによるもので、猟船が四一艘、極印船が一二艘あることも同様である。なお「湯屋三人」の下に、「是ハ男湯女湯相訳焚申候=これは男湯と女湯に別けて焚いている」、と註釈しているのは、老中松平定信によって、寛政三年(一七九一)に〝男女混浴禁止令〟が出され、男女湯を分けるよう指示したことに答えるものである。それまでの銭湯は入込湯(いりこみゆ)といって、男女が同一の湯舟と流し場をつかっていたのである。