現京浜電鉄の駅の一つに鮫洲というのがある。このあたり一帯を漠然と鮫洲というのだが、これには面白い地名伝説がある。建長三年(一二五二)というから鎌倉時代、有名な鎌倉建長寺が建立された時代であるが、品川沖に大きな鮫の死んだのがただよっていた。土地の漁夫がこれを海岸に引揚げて腹をさくと、なかから木像の観音様が出てきた。人々は不思議なことだというのでこの観音を祭って供養をし、この土地を人々は鮫洲と呼んだ。この話が時の執権北条時頼に聞こえて、かれはそれは珍しいことだ、伽藍一宇を建てて安置するようにというので南北二〇町余、東西一〇町余の寺域を賜い、また寺領として一〇〇貫文の土地を寄付した。これが南品川海晏寺の開基であるという話が『新編武蔵風土記稿』の品川海晏寺の項に出ている。弘化二年九月に作った「沿革御調ニ付品川領宿村書上控」にもほぼ同じ話がのせられているが、こちらには鮫の揚がった時が建長三年五月七日と、月日まで入れて書いてある。
真偽のほどはわからないが、地名伝説としてはよくある種類のもので、昭和七年に刊行した「大井町史」(大井町役場刊)には、その時揚がった鮫の頭骨なるものの写真が口絵に収められている。前頁の写真がそれである。所蔵者についての説明が入っていないが、それはある個人が所有していたもののようだが、現在では八幡(鮫洲)にある小社殿に収めている。ただし火災にあったため現在は完全な形状はとどめていない。
さてこの話からゆくと鮫洲というのは、大井村分に入るか南品川町分に入るのかという問題が出てくる。現在もそうだが江戸時代も海晏寺は南品川に属している。したがって海晏寺の地先海岸を鮫洲という、とすれば鮫洲は正確には南品川宿に入れるべきとなる。しかし海晏寺は南品川最南端にあり、大井村(町)と接しており、しかも鮫の揚がった当時の海晏寺の寺域は、江戸時代よりももっともっと広いはずだから、海晏寺の前あたり一帯の海岸を鮫洲というと解釈すれば、大井村(町)分に鮫洲があっても決しておかしいことにはならない。
しかし同じ「沿革御調ニ付品川領宿村書上控」でも大井村側の書上げでは、鮫洲の地名を鮫に結びつけていない。すなわち「鮫洲というのはさみつと仮名(かな)で書いて大井村御林町付近の総名になっているが、さみつは里俗の通称で正式には御林町である」としている。これによると大井村御林町が鮫洲ということになり、鮫洲はさみつの当て字で、魚の鮫とは関係ないということになる。これが正しいとすると前掲〝鮫の頭〟はその素性があやしくなってくる。
以上のようなことと現に鮫洲という駅があり、地名としては一番目立つのでここに収録することにした。