魚と関係する地名にいま一つ鯨塚というのがある。場所は御林町の八幡神社の境内である。嘉永四年(一八五一)四月十一日の朝がた御林町の海岸に一頭の鯨が漂ってきた。これを見つけた同町の漁師たちは、さっそく全員総出で海岸に引きあげ、そのことを村役人に届出、村役人からさらに代官所に届出た。代官所からは手代の秋葉金次郎という者が出張して来て、仔細に見分したうえ規則通り入札にして、大井町吉太郎なる者が落札した。これがさらに深川の越前屋茂兵衛に転売され、かれはこれを浅草で見せ物にしていたが、日がたつにしたがって腐り始めたので油を絞って販売した。そして後に残った頭骨を、鯨があがった土地の八幡神社に埋めて供養した。これが鯨塚である。ただし現今はこの鯨塚はなく、これは鯨ではなく鮫だったのだとの説もあって、真偽は判然としない。このほか品川区内には利田新地にいま一つ鯨塚があるが、こちらは寛政年間にとれたものの分である。
446p
なお代官所手代秋葉金次郎と大井村の村役人と、鯨を最初に見つけた忠兵衛という漁師とがつくったその時の見分書というのがあるが、それによるとこの鯨は「長さ三尋一尺・胴迫(廻)一尋五尺五寸・惣身処々摺疵これ有、落命致し居候」とある(『大井町誌』)。
江戸時代の鯨漁は紀伊の熊野、肥前の五島・唐津・大村・松浦、筑前の福岡など、南紀と九州の北西部が主体であった。しかし鯨は大海を游泳するもので、好物の鰯を追って思はぬ深追をしたり、また嵐におしながされたりなどして思いもかけぬ浦浜に近づき、土地の漁師に捕えられることがあった。また前記地域で捕えそこねた手負いの鯨が弱り果て、また死体となって遠隔の浦浜にたどりつくことも少なくなかった。そのため幕府は突鯨・流鯨・寄鯨の法を制定して漁村に触知らせていた。
突鯨(つきくじら)というのは大海を游泳する鯨をみつけ、漁師たちが大勢で出かけて銛(もり)で突いて取るのをいい、鯨がとれるとさっそくその旨を村役人へ、さらに村役人は代官または領主に届け出、その見分をうけたうえで入札し、落札直段の二〇分の一を役所に税として差出し、残りを働きに応じて配分するのが法であった。
流鯨(ながれくじら)というのは沖を漂流する鯨をみつけ、さっそく早船を出してこれをつなぎとめ、浜へ引いてきて捕えた場合をいい、村役人・代官(領主)に届けたうえその見分をうけ、入札によって得た金の十分の一を税として上納、残りを関係者で配分する法であった。
寄鯨(よりくじら)というのは銛などをうけて傷つき痛み、また死体となって海岸に流れ寄ったのを浜に引きあげた場合をいい、同様手続きをしたうえ、落札値の三分の二を税として上納し、三分の一を関係者が配分するのが法であった(『地方凡例録』)。
この大井御林町の場合は惣身に傷があり、しかも落命していたので寄鯨にあたり、利田新地の鯨塚の方は突鯨にあたるようである。