江戸時代の刑法は、今日のそれといろいろと異なるところが多いが、その最大の特徴の一つは監獄の制がなく、牢舎におかれるのは未決囚のみで、既決囚は直ちに死罪・遠島・追放などの刑に処せられること、いま一つは死刑にたんなる死罪からはじまり、獄門(ごくもん)・磔(はりつけ)などの段階があり、また火刑・鋸挽(のこぎりびき)などの特殊な死刑があったことである。
死罪以上は原則として江戸でおこなうのが一般だったが、在所でおこなう場合も少なくなかった。たんなる死罪は伝馬町の牢舎など、牢舎のかたすみの処刑場で首を刎ねるのだが、獄門はその首を晒場(さらしば)にならべておく。磔・火刑・鋸挽などは公開の場でおこなわれるのが一般で、江戸の場合は浅草か品川の仕置場が用いられた。浅草の仕置場は千束村小塚原、品川の仕置場は大井村鈴ケ森にあった。江戸時代は今より被疑者の扱いがきびしく、また牢舎も不衛生であったので、判決までに死亡するものも多かったが、そんな場合は死骸を塩づけにしておいて、所定の刑におこなうことがあった。死骸磔というのは塩づげにしておいた罪人の死体を磔にするものである。
死罪のつぎが遠島である。遠島の場所としてはその所に応じて伊豆七島・隠岐島・薩摩の島々が用いられた。たいてい船で運んで島においあげておくだけで、生活の手段をあたえなかったので、飢死する者も少なくなかった。江戸の場合は主として伊豆七島が用いられた。
追放というのは刑罰として、その人の居住地からおっぱらって立寄を禁止する刑である。たいていの場合、田畑家財の没収がこれに伴ううえ、江戸時代では村や町が生活の共同体として封鎖排他的に機能しており、容易に他所者をよせつけなかったため、追放の刑にされるということは、普通人としての生活のてだてを取上げられることであって、どこか他郷で窮死するか、悪の道にはしることが多かった。なお追放にはお構場所(かまいばしょ)といって、本来の居住地のほかにも立入ってはならぬ土地があった。