北の浅草小塚原にたいして、江戸の南の刑場としてつくられたのが鈴ケ森の刑場である。幕府の公式文書では小塚原・鈴ケ森という言葉をつかわず、たんに浅草・品川と呼んでいることが多いようである。
鈴ケ森の刑場は慶安四年(一六五一)に大井村浜川町の南方一本松の東海道往還西側にあたるところ上・中・下田・下畠あわせて五反歩を召しあげてつくられた。寛文十一年(一六七一)六月に下田壱反五畝歩と壱反四畝廿四歩分を百姓地に下げ戻したので元禄十年(一六九七)の検地帳には「獄門場 壱反弐畝歩 村持」というように出てくるわけである。