この土地は本来一本松と呼ぶべきだが、この仕置場の地続きで隣の不入斗村の鎮守社に鈴ケ森八幡があったことから、いつの間にか品川御仕置場のことを、鈴ケ森というようになったと弘化二年の「沿革取調ニつき品川領宿村書上」には書いている。
また『落穂集』には鈴ケ森という地名は江戸開府ころ、この土地にあった遊女町と関連して生まれたのだという説のあることを記している。それによると江戸吉原町の名主西田又右衛門が、享保十年(一七二五)に御上に差出した由来書とは少し異なるが、実はあれは表向きの事、実際はこちらの方が真実だといって語った話によると、西田又右衛門の先祖の庄司勘右衛門というのが、かれがまだ駿河国吉原宿にいた慶長の初めころ、旅宿の亭主二五人が集まって相談したのは、江戸城下はいま朝日の輝くような発展をとげているので、各人が抱えている足あらい女を召連れて江戸に行き、遊女屋を始めたら、さぞかし巨万の富を手に入れることができるだろう、と話一決して江戸下りとなったが、城下町に入ったのではおとがめを受けるかも知れないというので、今の新井宿の海辺の土地を借りて、店の表に紺の木綿三尺幅に仕たてた長のれんの端に鈴をつけて置き、客が来て鈴がなるのを合図に女どもが顔を出し、客はその中から気に入った女を選ぶという仕組にしたので、この土地を鈴ケ森と呼ぶようになった。森というのは此町の入口に大井社の森があったのでなぞらえたのである。徳川家康が品川筋に鷹野に来たときはこのあたりに牀几(しょうぎ)を置かせ遊女どもに茶をはこばせたり、晒首(さらしくび)の盃で酒を呑んだりもした。こんなことが縁で、其後二五人の者が願出て今の京橋具足町の東葦沼の汐入地を拝領して、吉原遊女町を作ることになったのである。
以上であって、どれだけ真実味があるのかにわかに判定しがたいが、のちこの地に三十軒屋と呼ぶ小名の遊女町ができたのは確である。この三十軒家町は明暦元年(一六五五)に藤右衛門という者によって創立されたもので、段々と栄えて延宝八年(一六八〇)には家数も三二一軒にもなっていたが、同年閏八月六日の夜に大暴風雨があり、一〇四軒が丸潰れ、二七軒が大破したということである(『大井町誌』)。『武江年表』をみるとこの日「大風雨、深川・本所浜町・霊巌島・鉄砲洲・八丁堀海上漲り上て家を損し人溺る、両国橋損し往来止る、谷中法恩寺本堂梁折れて半傾く、東海道筋所々浩波あふれて民家を溺らす」とあるから、江戸一円、とくに海岸地帯に大きな被害があったようである。