関東郡代

459 ~ 463

関東の天領は天正十八年(一五九〇)徳川家康が関東入部とともに、伊奈忠次(熊蔵 備前守)にその統治をまかせ、以後伊奈氏の世襲となった。代官頭ともいい、のち関東在方(ざいかた)掛ともいった。歴代の関東郡代在役年代は次の通りである。

 

 伊奈備前守忠次(ただつぐ)

   天正十八年より慶長十五年まで

 伊奈備前守忠政(ただまさ)

   慶長十五年より元和四年まで

 伊奈半十郎忠治(ただはる)

   元和四年より承応二年まで

 伊奈半左衛門忠勝(ただかつ)

   承応二年より寛文五年まで

 伊奈半十郎忠常(ただつね)

   寛文五年より延宝八年まで

 伊奈半十郎忠篤(ただあつ)

   延宝八年より元禄十年まで

 伊奈半左衛門忠順(ただのぶ)

   元禄十年より正徳二年まで

 伊奈半左衛門忠逵(ただみち)

   正徳二年より元文四年まで

 伊奈半十郎忠辰(ただとき)

   元文四年より宝暦六年まで

 伊奈備前守忠宥(ただおき)

   宝暦六年より明和七年まで

 伊奈半左衛門忠敬(ただひろ)

   明和七年より安永七年まで

 伊奈右近将監忠尊(ただたか)

   安永七年より寛政四年まで

 

 寛政四年(一七九二)三月、関東郡代伊奈忠尊は家事不取締りというので、御咎のうえ御役御免改易を申しつけられたので、ここに約二〇〇年ほど続いた伊奈氏の関東郡代時代は終わった。伊奈氏のあとは、さしあたり勘定奉行の久世丹後守広民が関東郡代職を兼ねることになり、以後勘定奉行の兼職となり、その下に五人の代官をおいて、その土地を分割支配させた。五人の代官とは菅沼安十郎・三河口(みかわぐち)太忠・篠山十兵衛・伊奈友之助および大貫次右衛門であり、品川地方担当は大貫次右衛門であった。以下歴代の代官をかかげると次のようになる(『品川町史』上巻一七一ページ)。

 

大貫次右衛門          寛政四年四月より

中村八太夫           文政五年□□より

関保右衛門 立会        天保十三年正月より

伊奈半左衛門

関保右衛門           天保十三年五月より

築山茂左衛門          天保十五年十一月より

青山録平 立会         嘉永二年八月より

斎藤嘉兵衛

青山録平            嘉永三年  より

斎藤嘉兵衛           嘉永五年  より

林部善太左衛門 立会      安政四年  より

竹垣三右衛門

小林藤之助           安政四年  より

竹垣三右衛門          文久二年三月より

木村董平            文久三年

佐々井半十郎 立会       慶応二年  より

今川要作

今川要作            慶応二年十月より

佐々井半十郎 立会       慶応三年三月より

大竹左馬太郎

松村忠四郎           慶応三年九月より

 

 関東郡代伊奈氏は初めは常盤橋御門の内に屋敷をかまえていたが、明暦三年(一六五七)三月三日に馬喰町に替地をもらって、ここを御用屋敷としていた。伊奈氏が寛政四年に改易になったあと、関東郡代を兼帯した勘定奉行久世丹後守広民がここに移り住み、以後も兼帯勘定奉行がここに住んでいたが、文化三年(一八〇六)屋敷焼失以後は代官三名の管理とし、名を馬喰町御用屋敷とあらためた。