江戸幕府の場合、その農村行政の系統図を書くとつぎのようになる。郡代または代官までが幕府の行政機関で、いわば支配者に属するが、大庄屋以下は身分的に見ると被支配者である農民である。
大庄屋というのは江戸時代地方行政にあたった村役人の最上位にあるもので、郡代・代官など幕府の地方支配役人の指揮下にあり、十数ヵ村の村役人を支配し、郡代・代官所からの法令を伝達し、年貢・夫役の割付け、管内村々の紛争や訴事の調整にあたった。正徳三年(一七一三)、新井白石によって有害無益のものだというので廃止されたが、享保十九年(一七三四)に将軍吉宗は必要があれば設置してもよいとして、その再置を許した。村という最終行政単位が小さすぎるため、郡代・代官所でこれを個々にとらえるより、十数ヵ村くらいずつまとめて、大庄屋を通して支配した方が便利な点が多かったからであろう。
文政十年(一八二七)幕府は関東一円を組合村に組織するにあたって大森村を中心に三七ヵ村をまとめて大森組寄場組合をつくったが、さらにその下に小組合をつくり品川区地域では大井・下蛇窪・上蛇窪・戸越・桐ケ谷・上大崎・下大崎・谷山・居木橋・二日五日市村の一〇ヵ村を小組合とし、大井村名主の大野五蔵を触頭(ふれがしら)として法令の伝達、諸役の割付けなどに当らせたが、大庄屋というのはさしあたりこれに似ていると考えてよいであろう(なお組合村については関係項参照)。
村役人というのは村方三役といって、名主(庄屋)・組頭・百姓代をさす。この村方三役体制が整うのは地域によって差異があるが、大体、享保期くらいである。村方三役のうち一番中心的で、かつ古くからあるのが名主(庄屋)である。名主は村の長で、自治体としての村の中心となるとともに、領主からの指示をうけて触の農民への周知徹底につとめ、また村単位に割掛けられてきた年貢諸役の割付け・徴収・村明細帳・宗門改帳その他公簿の作成など村政全般を司った。村の有力者が世襲的になることが多いが、原則論からいえば入札による公選制だったと考えてよい。有力者世襲のところでも、江戸時代中期以降には一代限りとなるところが多かった。なお相名主(あいなぬし)といって名主役が複数の場合もあった。