大井村は品川区域村々のなか最大の村であるが、ここでは江戸時代前半期は桜井・大野両家の相名主、正徳年間(正徳元年は一七一一)から後、つまり江戸時代後半期は大野家の単独世襲名主であったようである。以下両家歴代名主の名とその勤務年代をあげるとつぎのようになる(『大井町誌』)。
(1) 桜井家
桜井長三郎
天正十九年より元和三年まで
桜井新右衛門
元和四年より寛永六年まで
桜井源八郎
寛永七年より承応三年まで
桜井新右衛門
明暦元年より延宝七年まで
桜井伊兵衛
延宝八年より元禄七年まで
桜井源八
元禄八年より元禄十三年まで
桜井浅右衛門
元禄十三年より正徳年間まで
(2) 大野家
大野忠右衛門正高
寛永十一年より同十九年まで
大野忠右衛門正通
承応二年より元禄六年まで
大野忠右衛門正信
元禄七年より宝永七年まで
大野五蔵
宝永七年より享保七年まで
大野忠右衛門正状
享保七年より同二十年まで
大野五蔵永図
宝暦三年より明和五年まで
大野貫蔵惟一
明和五年より文化五年まで
大野五蔵惟図
文化五年より
大野貫蔵永〓
弘化年間より
大野貫蔵永秀
慶応年間より
桜井家は信濃の住人海野(うんの)又六、のち桜井対馬守と名乗った者の三男で、父が没落したのち大井の地に移住し、江戸時代初頭ころ田二三石七升一合、畑八石三斗八升三合、合わせて四一石四斗五升四合の土地を持つに至っていたといわれる(数字合わず『大井町誌』のまま)。一方大野家の方は江戸時代初頭で田一一石一斗、畑一四石八斗七升四合、合わせて二五石九斗七升四合、文政十年(一八二七)で四七石七升余の田畑を持っていたといわれる。桜井家は江戸時代初頭は大野家の倍ほどの田畑を持っているが、ともに村落内では群をぬいた大百姓であったことは事実であろう。
桜井家が正徳年間に名主をやめて、以後大野家が単独で名主役を勤めるにいたるには若干の事情があった。
そもそも江戸幕府の財政は初めは(イ)天領からの年貢収入、(ロ) 貿易収入、(ハ) 鉱山収入の三本の柱に支えられてたいへん豊かなものであった。明暦三年(一六五七)段階で江戸城に持っていた金銀は、金換算で三八六万三〇〇〇両と、非常用軍資金として金約八七九貫(一個四四貫弱の金分銅二〇個)と銀九、〇五六貫(同様銀分銅二〇六個)という莫大なものであった。
ところが幕府の収入で、もっとも大きな部分を占めていた鉱山からの産出金銀が、寛永末年ころから激減したうえ、貿易収入もたいしたものでなくなっていたので、明暦大火後の復興資金その他に、四代将軍家綱の末年にはほとんど使い果たしてしまい、延宝八年(一六八〇)綱吉が五代将軍の座についたときには、もはや天領四〇〇万石の年貢収入以外には頼るべき財源がなくなっていた。
そのため五代将軍綱吉の仕事は、まず何よりも天領四〇〇万石の年貢収入のうえに、幕府財政を確立することであった。綱吉はもっとも信頼する老中堀田正俊を国用方(財政・民政担当)の老中にすえ、その下に実力第一主義で抜擢した勘定方役人をすえ、これを督励して総代官の年貢収納事務の監査を行なうのである。このため大井村は天和三年(一六八三)年貢米永の未進、米一、〇〇〇俵と金五〇〇両余をすみやかに納入するよう要請され、名主伊兵衛(桜井)はじめ年寄の妻子まで小杉の百姓牢に入れられ、また手錠の責(せめ)にあうものもある有様であった。名主伊兵衛は店屋敷を六五両で売払い、また相名主の忠右衛門(大野)もその田畑家屋敷を一三〇両余で売払うなど、苦心の末に結局元禄十四年(一七〇一)三月九日に米二〇俵五斗二合五勺を納めて、残るところ二九俵二斗九升四合五勺にまでこぎつけている。
この間名主伊兵衛は心労のため元禄九年夏病になり、同年十一月十七日死亡している。こんなことで大井村名主の桜井家の方は家運も傾き、結局消えてゆくのである。