品川区地域は南北品川宿と上大崎・下大崎・二日五日市・居木橋・谷山・桐ケ谷・小山・戸越・中延・上蛇窪・下蛇窪・大井村の二宿一二ヵ村とからなりたっており、そのほとんどが代官中村八太夫支配の天領に属しており、支配(領主権)の入組関係は非常に単純であるが、たとえば、下中延村が増上寺御霊屋(おたまや)料、新井宿が旗本の木原兵三郎領、そして久ケ原村が中村八太夫支配の天領、ほか八つの寺社・旗本領となっているように、これを荏原一郡にひろげてみると、天領・寺社領・大名領・旗本御家人領というように、支配の錯綜ぶりが目につく。これをさらに武蔵一国にひろげてみるといっそうその点が強調される。
常陸 | 下野 | 上野 | 下総 | 上総 | 安房 | 武蔵 | 相模 | |
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30万石以上 | 1 | |||||||
25万 〃 | ||||||||
20万 〃 | ||||||||
15万 〃 | 1 | |||||||
10万 〃 | 1 | 1 | ||||||
9万 〃 | 1 | 1 | ||||||
8万 〃 | 1 | 1 | ||||||
7万 〃 | 1 | 1 | ||||||
6万 〃 | 1 | |||||||
5万 〃 | 1 | |||||||
4万 〃 | ||||||||
3万 〃 | 2 | 2 | 1 | |||||
2万 〃 | 2 | 2 | 2 | 2 | ||||
1.5万〃 | 1 | 1 | 1 | 1 | ||||
1.0万〃 | 4 | 4 | 2 | 4 | 1 | 2 | 2 | 1 |
万石 | 万石 | 万石 | 万石 | 万石 | 万石 | 万石 | 万石 | |
大名領高 合計(A) |
67.9 | 18.2 | 26.8 | 29.8 | 9.6 | 3.7 | 31.3 | 12.6 |
高(B) | 903.778 | 681.702 | 591.834 | 568.331 | 391.113 | 92.886 | 1,167.662 | 258.026 |
A/B | 75.1% | 26.6% | 45.2% | 52.4% | 24.5% | 39.8% | 26.8% | 48.8% |
このような支配および行政権の錯綜は、武蔵一円の特徴であるが、それはまた関東一円の特徴ででもある。そのうえ関東地域は支配構造のうえからみると、いま一つの大きな特徴をもっていた。それは常陸国(現茨城県)を除いて大きな大名をもたず、さらに大名領(一石万以上の領主を大名という)の比率が天領・寺社領・旗本領の合計に較べて非常に低いということである。このことはその地域の治安維持をいちじるしく困難なものとした。
というのは江戸時代の色々な領主のうち、大名領にくらべて、天領・寺社領・旗本御家人領は治安維持の軸になる武士の数が、実数のうえでも、また対石高比率のうえからみても、非常に劣っていたからである。
そもそも江戸時代の領主がかかえている武士の数(それが同時に警察力ともなる)は慶安二年(一六四九)の軍役規定によると第27表のようで、五万石の大名で一、〇〇五人、一〇万石で二、一五五人となっている。だがこれは各大名が有事の際に幕府に奉仕するために常に備えておかねばならぬ最低限の人数で、実際はこれより多いのが普通のようである。たとえば岸和田藩五万石の享保年間の武士数は一、六五八人で、軍役規定より六〇〇人ほど多い人数をもっている。このような私領の軍事力(警察力)にたいして、天領の場合は一人の代官が五~一〇万石ほどの土地を支配しているのにもかかわらず、代官の指揮のもとに現場を担当する代官所陣屋につめている人員は、元文元年(一七三六)の「御代官入用積之覚」から計算してみると、勝手賄人や足軽・中間という奉公人まで計算にいれても全員で二九名で、武士身分の者は一四名である。その詳細を表示すると第28表のごとくである。
石高 | 軍役人数 |
---|---|
1万石 | 235人 |
2〃 | 415人 |
3〃 | 610人 |
4〃 | 770人 |
5〃 | 1005人 |
6〃 | 1210人 |
7〃 | 1463人 |
8〃 | 1677人 |
9〃 | 1925人 |
10〃 | 2155人 |
人数 | |
---|---|
人 | |
代官 | 1 |
元締 | 2 |
並手代 | 8 |
書役 | 2 |
侍 | 1 |
勝手賄人 | 1 |
足軽 | 1 |
中間 | 13 |
計 | 29 |
大名領に較べて天領はその治安維持能力がいちじるしく劣るのである。そのことは寺社領・旗本領においてもほぼ同様か、それよりまた一段劣るのが一般で、支配村々まで武士を派遣する能力のないものの方が多いのが実情で、農民の自警団的組織のほかは、治安維持機能は皆無に等しいものであった。
このように大名領が少なく天領・寺社領・旗本領が多い地域は、全体的にいって治安維持能力が本来的に弱いのだが、そのうえに支配(領主)のちがいによって警察力の及ぶ範囲が異なり、お互いに他領には手が出せないという江戸時代の行政のしくみが、ことをいっそう困難にし、大名領・天領・寺社領・旗本領が錯綜している関東地方は、治安維持能力の一番弱い地帯をなしていたのである。
このような関東地方の構造上の欠陥が表面化してくるのは、江戸時代のなかば、享保改革のころである。
江戸時代の前半期、だいたい八代将軍吉宗のころまでは、江戸幕府は一揆で代表される庶民の抵抗を深刻に考慮し、対策をねる必要のあることとは考えていなかった。むしろ幕府は、一揆は「知行所の政治は清廉に、かつ非法がないようにしなければならない。知行をまかされている国郡を衰弊させてはならぬ」(寛永十二年の武家諸法度の第一四条)という武家諸法度に関連のあることと考え、一揆がおこることはその領主の政治が悪く、領内の農民を衰弊させたからであるとして、これを大名統制の手段として利用できると考えていたふしがある。というのは戦国時代の群雄割拠のなかから、しだいに弱肉強食の闘争をくりかえして成長してきた大名たちは、本来はお互いに油断も隙も見せることのできない競争相手として存在したはずであり、その闘争を勝ちぬくことのなかから織田・豊臣・徳川といった覇者は生まれてきたのである。したがって封建社会下にあっては、領主←→農民といった基本的な階級対立関係をもちながら、近世初頭においては、この対立関係はまだ表面に、それほどきびしい問題として姿を見せず、むしろ戦国争奪のなごりとしての、領主相互間の対立の方が、より深刻な問題として意識されるわけである。したがって幕府は近世初期においては、本来は自分の競争相手であり、何時自分にとってかわろうとするかもしれない大名たちの統制に全力をあげ、幕府の意にそわぬ大名の取潰しの理由に、農民一揆を利用するのである。
しかし近世中期、なかんずく享保期になると、幕府の農民一揆にたいする態度もかわらざるをえなくなった。その理由は、それまでの一揆がほとんど私領でおこり、天領でおこることが少なかったのにたいし、享保期になると天領、すなわち幕府そのものが一揆闘争の対象になってくるのである。しかも享保期の大一揆のほとんどが天領で発生しているのである。