まず享保五年(一七二〇)十月におこった会津御蔵入騒動がある。この一揆は幕府の年貢収奪のはげしさと、郷頭という農民支配のための職制にたいする闘争で、一三カ条の要求書を一揆側がかかげて、江戸に出訴するなどして闘った大一揆で、農民側も多大の犠牲者を出したが、代官も「奉職無状」というので免職され、郷頭も処分されて一件落着している。
つぎに享保七年四月に出された〝流地禁止令〟(質流れを禁止する法令)をきっかけにして、天領の羽州村山郡長瀞村と、越後の頸城(くびき)郡一帯におこった〝質地騒動〟とよばれる大一揆がある。
つぎに享保十四年奥州伊達・信夫両郡下の五四ヵ村の天領で、年貢増徴をきっかけとして夫食拝借(ふじきはいしゃく)(農民の食いぶちとしての食糧を領主から借りること)と、年貢減免を要求して一揆がおき、一揆軍は二本松・福島の城下町までおしだして強訴をしている。
享保十八年(一七三三)には江戸幕府はじまって以来最初の、江戸での打ちこわしである〝高間騒動〟がおきて世間の耳目をおどろかせている。また元文三年(一七三八)および四年にかけて但馬国生野鉱山で鉱夫の蜂起があり、それがまたたくまに周辺農村に及んでいる。そして将軍吉宗晩年の延享年間(延享元年は一七四四)には農民一揆ではないが、江戸時代の治安対策のうえで重要な意味をもつ、日本左衛門の事件がおきている。
これらの事件は、どれ一つをとってみても非常に重要な意味をもつが、ここではさしあたり、幕府の治安政策上とくに重要な意味をもった〝質地騒動〟と〝日本左衛門〟の事件についてのべておく。
〝質地騒動〟というのは有名な〝流地禁止令〟をきっかけとして出羽国村山郡長瀞村と越後国頸城郡一円におきた一揆である。江戸幕府は元禄八年(一六九五)以来、それまで禁止していた質入地の質流れを認めるようになり、以後その線にそって土地政策は強化されてきたが、〝流地禁止令〟というのは、それは江戸町方の屋敷地取扱いに準じて農村の土地を取扱った結果おこった誤った政策であるという理由で、質入れ・質流れによる耕地移動を認めることを停止した法令である。したがってこの法令によって打撃をうけるのは当時質取り・質流れを通して耕地集積をすすめつつあった村落上層および都市在住の商人たちだった。質地騒動をおこした両地方はともに、この法令がでたことによって農民が動揺することを恐れた村役人たちが、法令の伝達をにぎりつぶしたことから事態は逆に悪化して農民たちは〝徳政令〟がでたとして大挙して質地取返しの実力行使に入ったわけである。この農民側の実力行使にたいし村役人はじめ富裕者層は代官所役人にそのとり鎮め方を訴えるのだが、長瀞村の支配代官所である漆山陣屋では「暴人の一〇人や二〇人くらいならきっと取り鎮めてみせるが、なにさま三~四〇〇人もの暴徒なのでどうすることもできない」という返辞をして一向に取締ってくれないのみか役人たちは代官所陣屋から逃げ出してしまう有様であった。
このことは越後国頸城郡の場合も同様であって、騒動がおこると代官所役人はいちはやく陣屋をすてて、治安維持能力のしっかりしている大名領である高田藩領に逃げこんでしまうのである。この騒動が自藩へ波及することを恐れた高田藩は「天領の農民たちが騒ぎたて、それが一向におさまらないので、騒ぎが自分の領地にもおよびそうで困っている。もしそちらで鎮圧できないのであれば、自分のところの兵隊をだして暴徒を捕へてさし出しましょうか」と幕府に申しいれをしている。このようなことがあったためであろうと思はれるが、幕府は長瀞の場合も、頸城郡の場合も結局は代官所の人員でではなく周辺大名たちの兵力を動員して一揆を鎮圧している。つまりこの事件によって、天領にすこし規模の大きい騒動がおきた場合は、幕府も大名たちの兵力をかりなければ、それを鎮めることができないということを暴露したわけである。
このような事態を考慮して幕府は享保十七年に、西国の大飢饉がおこると、(イ) 西国の蝗害地にかぎる、(ロ) 江戸へ伺いの時間がない場合にかぎるという条件をつけて、天領周辺にある大名で、天領に非常の事態がおきて人手を要するときは、幕府に伺いをたてなくても出兵をしてよいという〝御料地非常時諸大名出兵令〟を出すのである。