4 天領支配下の治安対策

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 以上のように天領支配については、治安問題とからんで、享保期にその弱点が露呈し、幕府もその対策を考えはじめるのだが、それがさらにあらわなかたちで、しかも天領・寺社領・旗本領など領地錯綜地の治安問題をもからめて、幕府に抜本的対策の必要を痛感させるのが、吉宗治世の晩年におこった盗賊〝日本左衛門〟の事件である。

 歴史上に名をはせた盗人は石川五右衛門・鼠小僧次郎吉など数多いが、事が事だけに、かれらのやったといわれることを、実際について検討してみると、伝説や粉飾につつまれていて影のぼやけてしまうものがほとんどである。それらのなかで、氏(うじ)も素性(すじょう)もその業績(?)もはっきりしているのが、日本左衛門こと浜嶋庄兵衛である。

 日本左衛門が活躍したのは、八代将軍吉宗の治世の終わりから、九代将軍家重のはじめにかけてである。かれは尾張藩の下士で七里役(尾州藩営の飛脚)であった浜嶋富右衛門の子で、一時美濃(岐阜県)で俳諧の宗匠などをしていたが、いつのころからか、部下数百人をつれて遠州(静岡県)の金谷・掛川あたりを中心に、不正の蓄財をしたとうわさされる金持を荒らしまわるようになった。

 尾張藩の七里役といえば足が速いので有名で、胸においた菅笠が絶対に落ちないほどのスピードがあったといわれている。日本左衛門はこの足を利用して、昼は美濃で俳諧の宗匠をし、夜になると遠州まで出かけて盗みを働いていたという話もあるが、この間約一八〇キロもあるので、もちろんそれは信用できない話である。

 かれの盗みの戦術は豪快かつ巧妙をきわめていた。遠州豊田郡の村々から幕府に出された、日本左衛門を召し捕ってほしいとの歎願状には、その手口をつぎのように説明している(『列侯深秘録』)。

 「お上からはつねづね、盗人がはいったときは鐘や太鼓をうちならし村人を集め、また隣村にも連絡して、これを捕えるか追い散らすように指示されているが、日本左衛門の一味が盗みにはいるときは、目標の家の隣近所の家々にみな、表も裏も出入口に二、三人ずつの番をつけ、さらに村の道の要所要所にも四、五人ずつの、それも抜き身の刀を持った見張番を立てているので、盗人にはいられた家でどんなに鐘太鼓をならしても、助けにゆくことはもちろん、隣村へ知らせにゆくこともできない。

 日本左衛門が遠州の地で盗みを働きはじめてもう三年にもなるのに、この土地の領主たちはいろいろ探索してみたが、そのような盗賊一味がこの土地にいる形跡はまったくないといっている。しかしそれは自分の支配地だけを調べるからそう見えるので、かれらはある領地で探索があることをかぎつけると、すぐほかの領地に移ってしまう。ことにこの地方は警察力の弱い天領や旗本領が複雑にいりくんでおり、お互いに他に警察力がおよばないので、そのような地域をつぎつぎと利用して逃げるので、つかまらないのである。

 なんとかひとつ幕府の力でじきじき捕えてほしい」

というものであった。この訴をうけた幕府は、延享三年(一七四六)十月、盗賊対策としては異例の、おそらく盗賊に対するものとしては江戸時代最初の全国指名手配をした。その手配書はつぎのようである(『御触書宝暦集成』)。

   十右衛門こと浜嶋庄兵衛

一、せい五尺八~九寸ほど、小袖くじらさしにて三尺九寸。

一、歳二十九歳だが見かけは三十一~二歳に見える。

一、月額(さかやき)は濃く、一寸五分ほどの疵(きず)がある。

一、色は白く歯並びもよい。

   ……(以下略)……

右の者は悪党仲間では日本左衛門という異名をもっている。しかし自分からはそのように名乗ったことはないとのことである。もしこのような者を見つけたら留置いて、御料は代官所に、私領は領主のところに申し出るように。

とある。かれについては、年中黒羽二重をきて、手下四〇〇~五〇〇人をしたがえていたとか、そのほか庶民の英雄らしくしたてた伝説が多いが、この手配書を見ても、かなりりっぱな風貌の持主であったことがわかる。

 さて、この手配書の出た年の暮れころに、京都町奉行所に下僕をつれたりっぱな武士が出頭した。そして自分が全国に指名手配されている日本左衛門だと名乗ったので、腰をぬかさんばかりにおどろいた役人が、さっそく縄をかけようとすると「縄などかけても、逃げようと思えばいつでも逃げられる。しかし、全国指名手配になった以上、逃げおおせるものでない。それに、これ以上逃げていると、必死になって自分を追っている全国の捕方に気の毒だと思って自首したのだ。縄などかける必要はない」といったといわれている。

 かれは翌年春に京都から江戸に送られ、同年三月二十一日に江戸じゅう引き廻しのうえ品川鈴ケ森で処刑され、その首は遠州見付の宿でさらされた。

 この日本左衛門の行動をみると、(イ) 江戸時代の警察権は、たとえそれが目と鼻のさきであっても他領には及ばないこと、(ロ) 天領・寺社領・旗本領などは自身の警察力が非常に弱いということ、したがって犯罪をおこなうのは大名領ではなくて、天領・寺社領・旗本領が錯綜しているところが一番好適地である、という条件をもっとも活用した行為といえる。

 さてこう見てくると日本左衛門が活躍した遠州大井川西岸もその条件を備えているが、それがよりあらわにみられるのが関東江戸周辺の村々である。つまり関東地方は全幕領四〇〇万石のうち一〇〇万石が、また全旗本領三〇〇万石のうち一〇〇万石が集中して天領・旗本領比率が多いうえに、寺社領も多く、しかもそれらが複雑に入組んでおり、治安維持能力のいちじるしく低い地帯を形成しているのである。関東地方が早くから治安が乱れ、博徒・盗賊が横行したのは、このような事情によるのである。

 十八世紀後半も、宝暦から明和・安永・天明と時代がさがるとともに、農村では富を集めて上昇する者と、反対に貧窮化してゆくものの明暗が目立つようになると、治安維持の面で弱点のある関東一円では、禁制の博奕がはやるようになり、いわゆる〝やくざ〟や盗賊が横行するようになる。

 このようなわけで関東一円では、その対策に色々苦心するところがあったようで、たとえば宝暦六年(一七五六)三月に上総国夷隅(いすみ)郡井沢村ほか一二ヵ村の村々が共通の掟書のもとに組合村を組織し、村の治安維持につとめている。

 幕府でも安永七年(一七七八)四月に、無宿者は罪のあるなしにかかわらず、全部とらえて、これを佐渡に送り金山の水汲人足にすることとし、また寛政改革の過程で、農民の江戸への出稼奉公を制限するとともに、無宿者を捉えて江戸石川島の人足寄場に収容し、ここで教諭を加えて村へ帰して生業につかせるよう努力している。しかし全体的に見ると、事態は改善より悪化の方向をたどった。

 このような状況を見かねて幕府はついに、享和二年(一八〇二)六月に、これまでにもたびたび禁止の触をだしたにもかかわらず、いまだに賭博の悪習がやまない。不届のいたりであるから、今後は町奉行(江戸)の組下の目明しを廻村させ、博奕の現行犯は天領・私領の差別なく召捕ることとする。なおこのような逮捕者が多くでるのは、代官・領主・地頭(旗本領の場合、領主を地頭という)の責任であるから、よくよく気をつけるようという触を出した。