関東取締出役の設置

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これよりさき、寛政四年(一七九二)に幕府はそれまで関東にある天領支配をまかせてきた関東郡代伊奈家を、当主忠尊(ただたか)に職務上の不行届があったという理由で、改易にしたことは前に記したとおりであるが、長年の支配の体制が急に変わったということもあって、ただでさえ治安維持のうえにとかくの問題があった関東農村の治安が、ますます不安定になったので、文化二年(一八〇五)六月に関東取締出役、俗に八州廻りという役職を設けて、関東在方の取りしまりを強化することにした。

 関東取締出役は、はじめ関東四手代官の手付(代官所の職員の役職の一つ)のなかから、一〇年以上勤めた有能な人物八名を選んで任命し、これに手代・足軽・小者をつけた。かれらは関東の天領・私領の別なく一ヵ月に一回、一ヵ所七日くらいの日程で巡視し、無宿者・遊民・博徒などの検索にあたり、また農民の不穏な動きなどを監視した。

 このような幕府の動きに呼応して、私領でもそれぞれ努力するところがあったが、関東農村の治安の混乱はいっこうに改善されぬのみか、むしろ悪化さえしたので、幕府はついに文政九年(一八二六)に、長脇差を帯し、または鉄砲・槍をもって徘徊し乱暴をするものは、死罪にするという触を高札場と村役人宅の前にはり出させた。そして翌文政十年には天領・私領の関係なく、もよりの村を組合わせて寄場(よせば)組合をつくらせ、農村の治安維持の拠点とさせた。

 元来幕府の関八州村々における治安維持の体制は、村民が力をあわせて盗人・悪党を捕えてこれを代官所(旗本領の場合は地頭役所)につきだす、というのが基本的なものであったので、寄場組合というのは、それを拡大強化した体制といえるだろう。組合村のつくりかたは、大体一〇ヵ村前後をまとめて小組合とし、小組合を五つ六つあわせて大組合とした。大組合には大惣代、小組合には小惣代をおき、大組合の一村にはさらに寄場役人がおかれた。このような寄場組合組織は関八州取締出役の下におかれ、そのうえを幕府の地方支配機関である勘定奉行が統括する仕組であった。寄場村の任務は、域内村々の治安維持に留意するとともに、囚人を江戸に継送りしたり、さほどでないものは寄場に拘留しておき、寄場役人より教諭を加えたりすることであった。また大惣代は八州廻りの指令をうけて、組合村々の農間稼ぎや、酒造その他の調査、さらに質屋の鑑札改めをするなど、幕末期関東農村の経済統制の仕事もしている。