品川寄場組合

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組合村結成にあたって品川宿は四七ヵ村を結集し、同宿が中心になって一つの寄場組合を組織しようとしたが、諸種の事情のため南北品川、すなわち品川宿のみが一つの寄場組合をつくることになった。このような事例は武蔵国全体を見渡すと内藤新宿・檜原・駒込・仙波・大宮・板橋の場合にみられる特異なものに属するが、どのような事情によるのかいまのところ明らかでない。ただ文政十年九月の関東向取締出役に差出した請書(差上申御請書之事)と文政十一年六月の「御取締被仰渡御請証文小前連印書上帳」をみると前記村方に見られる組合議定書とは大分形式内容がちがっている。

 まず文政十年九月の「差上申御請書之事」では、町奉行様御組中様、関東向御取締出役中様・火付盗賊改御組中様の御案内の者だと称して宿方にやってきて、旅籠屋に泊まっている旅人をむやみと改めたり、また御用宿などを申付け木銭米代だけで泊まったり、場合によってはそれさえ支払わずに泊まることがあるが、そのような場合はその指示者の姓名はもちろん、実際にやってきた者の名前と住所とを聞いて帳面に記しておいたうえで、(関東取締出役様の)廻村の節にその趣を申し出る。すべて前記のような用向で出張役人様が御休泊なさった節は、その姓名、連れてきた小者、案内の者まで帳づけしておいて、これもまた必ず廻村の節に御覧に入れます、という旨を品川宿年寄・問屋・名主連名で関東向御取締出役あてに誓っている。

 つぎの文政十一年六月の「御取締被仰渡御請証文小前連印書上帳」の方は、村方にある組合議定書に当たるもので、前書の部分と、二ヵ条よりなる後書の部分よりなっている。

 前書の部分では、村方において若者たちが仲間をつくり、その仲間内で意見の合わぬ者があるときは、私に争いをし出入になることも間々ある有様である。もともと仲間をたてることは不法不埓のことであるので、今度関東御取締出役様から申し付けもあったので、今後そのような事は一切いたさせないように、万一右様不埓者があった場合は五人組の者より忠告をし、それでも聞きいれない場合は村役人まで申し出、村役人より意見を加えてやめさせるように。ともあれ万事五人組が中心になって解決し悪事に走るものがないようにすること。今後前記のように仲間を結び、仲間内で争うようなことがあれば、村役人と争いをおこしたものおよび五人組の者は、きびしく御咎をうけるはずである、とし、そのあとに〝村方五人組帳之内書抜〟として、村内の者は脇百姓・家抱・前地・店之者まで一人ももれぬよう五人組に組織し、この五人組を単位として何事も行ない、悪事・心得違いの者を出さぬよう心掛ける旨の事が記されている。

 つぎの後書の部分は〝今般関東取締出役より申渡候箇条之内〟として、さきに村方の組合議定書で説明した第一七条と第一九条の二ヵ条が記され、これらの旨を尊守するとの品川宿一同の請印が記されている。

 以上のように品川宿とその周辺村々の組合議定書は、現在史料で見られる限りかなり形式内容を異にしたものであるが、それが宿と村との機能のちがいからきたものかどうかについては、若干の疑問が残るところである。