鷹場と組合村組織

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江戸周辺だいたい五里(約二〇キロ)以内の村々は幕府の鷹場に、その外周約五里くらいは御三家などの鷹場に指定されていたが、この鷹場と組合村との間には若干機能上の類似があった。というのは鷹場は幕府の放鷹のための特別地区であったため、支配をこえた統治権が別個に存し、それが関東地域の治安維持能力の弱さを補う機能をもち、また幕府も意識的にそれをもたせようと企図していたからである。したがって組合村の設置にあたっては、この鷹場のかかる機能をそのなかにとりいれようと試みている。

 そもそも飼い慣らした鷹を野に放って、野鳥や兎・狸などの小動物を捕へさす鷹狩という狩猟法は、本来アジアの遊牧民族の間に発達、やがて東西に広く伝播したものである。

 わが国には五世紀仁徳天皇の時に伝来し、ひろく各地にひろがったらしく、群馬県佐波郡境町出土の人物埴輪に鷹匠の像が含まれている。それ以来貴族の遊戯となり、天皇の鷹狩を野行幸と呼び、狩場を禁野(しめの)といった。やがて武士もこれを行なうようになったが、その勇壮さがその気質に合ったため、段々と武士中心の遊びとなった。戦国時代一時おとろえたが、徳川家康がこれを好んだため諸大名もこれに習い、江戸時代にはたいへん盛んになった。

 家康のころは鷹狩を行なうために、まだ特定の場所(鷹場)が用意されていなかったようであるが、寛永五年(一六二八)十月に江戸から大体五里以内の村々が鷹場として指定され、「放鷹場制札」五ヵ条が建てられた。この制札は一~四条までは黒印の木札を所持した特定者以外はどのような者たりとも放鷹は許可されていないので、万一そのような者がいた場合は訴え出るべきことを命じ、第五条では「在々所々にあやしい者を一切おかないように」としている。鷹場の設置そのものが治安維持をも同時に狙ったものであったことはこの第五条で明らかである。なおこの時放鷹の許可証である黒印木札をもらったのは加藤伊織・戸田久助・小栗長左衛門・阿部新左衛門の四人の鷹頭であった(『徳川禁令考』一、〇〇八・九号)。

 幕府の鷹場設定についで寛永十年二月には、その外側、ほぼ江戸から五里と一〇里との間に御三家にも鷹場があたえられた。鷹場をあたえられる資格は、御三家・三卿・家門・連枝・大藩主・幕府の重臣などで、またかれらには幕府の鷹場の使用が臨時に許されることもあった。